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「写真とは、見慣れた世界が再び見知らぬものに感じられるまで、見る速度を落とすことです。」

見慣れた風景の向こう側へ

マルセル・ファン・ベーク(Marcel van Beek)は、ドイツを拠点に活動する美術家、写真家です。絵画、グラフィックアート、舞台美術、ファインアート写真を学んだ経験が、現在の制作の土台となっています。彼にとって写真は、目の前の現実をそのまま記録するものではありません。光や空気感、形の配置まで考えながら、一枚の画面を組み立てていく表現です。絵画からは、構図や明暗の関係、画面全体のバランスを見極める感覚を身につけました。舞台美術を通して学んだのは、空間の見せ方や切り取り方、さらに物の置かれる位置や光の当たり方によって、印象や意味が変わるということです。こうした経験を一つに結びつけたのが写真でした。現実の世界を直接捉えながら、絵画のように構図や光をじっくり考えて画面をつくることができる点に、彼は写真ならではの可能性を見いだしています。

さまざまな分野から受けた影響は、ありふれた環境のなかに意味を見いだそうとする、ファン・ベーク独自の視覚表現へとつながっています。彼が目を向けるのは、特別な出来事や珍しい題材ではありません。葉、風雨にさらされたコンクリート、反射像、建築物の断片、水、ガラス、カーテン、時間が残した痕跡などが、作品のなかに繰り返し登場します。ただし、その姿や質感を記録すること自体が目的ではありません。日常の一部だったものが、ふと見慣れた印象から離れ、象徴的な意味や心理的な気配、静かな謎を帯び始める瞬間を捉えようとしています。注意深く周囲を観察しながら探しているのは、外の世界が内面の感情と響き合う場面です。そこでは記憶や気分、知覚が重なり合い、具体的な物語や説明に頼ることなく、写真そのものが心の動きを受け止める空間となります。

ファン・ベークの芸術観の中心には、意識を向けることによって体験そのものが変わるという考えがあります。大がかりな場面を演出するのではなく、見過ごされがちな細部にはもともと豊かな視覚的可能性が潜んでいると信じ、時間をかけて世界と向き合います。その写真が促すのは、普段なら何気なく通り過ぎてしまう物を、もう一度見つめ直すことです。見る速度を落とすにつれて、表面の奥から思いがけない感情の深みが現れ、慣れ親しんだ場所も少しずつ不確かなものへと変わっていきます。すぐに何が写っているのかを判断するのではなく、立ち止まり、考えるための時間を与える作品です。彼にとって写真は、外から見える姿と内面の感覚とのあいだに隠れたつながりを見つけ出す手段でもあります。日常の現実にあらためて繊細なまなざしを向けることで、これまで気づかなかったものに出会う可能性を開いているのです。

マルセル・ファン・ベーク:抽象と内面の響きが交わる写真

ファン・ベークは、創作を続けるなかで、対象を時間をかけて観察することの大切さを、次第に確信するようになったと語ります。初期の絵画では、象徴的なイメージや心の内に広がる感情を表現していましたが、写真に取り組むようになると、自分が想像していた形や張りつめた空気が、すでに現実の風景のなかにも存在していることに気づきます。そこで絵画から離れるのではなく、絵を描くなかで培った見方を写真にも生かし、現実を写しながら抽象にも近づいていく、独自の表現を築いてきました。その作品では、画面から余分な要素を取り除くことも大切にされています。ただ簡潔な構図を目指しているのではありません。視線を散らすものを減らすことで、階段や反射像、一枚の葉といった目立たない対象の存在感を引き出し、見る人の心に思いがけない感情や連想を呼び起こしているのです。

彼が繰り返し向き合っているのは、変化、静けさ、境界、そして見慣れたものがどこか異質に感じられる瞬間です。ガラスを覆う結露、植物の形、建物の壁面、鏡や水面に映る像などを通して、ものの見え方がどのように変わるのかを探っています。そのために用いるのが、画面の切り取り方や明暗の調整、浅い被写界深度、ぼかし、像の反転といった手法です。ただし、目を引く効果を生み出すためだけに使われているわけではありません。一つひとつの選択によって、ありふれた物に生命の気配や不確かさが生まれ、静かな象徴として立ち現れる空間が形づくられます。ファン・ベークが求めているのは、目の前にあるものを確かに捉えたという感覚が揺らぐ瞬間です。作品を見る人は、そこに写っているのが現実の風景なのか、感情を伴う記憶なのか、あるいはそのどちらとも言い切れないものなのかを考えることになります。

こうした表現を形づくるうえで、さまざまな芸術家や芸術運動から受けた影響も欠かせません。ロマン主義と象徴主義は、目に見える現実を、豊かな空気感と内省を伴う世界へ変える表現として、長年にわたり彼を刺激してきました。写真家では、感情を抑えながらも繊細に伝えるヨゼフ・スデクの作品や、建築空間を静かなまなざしで捉えるミンモ・ヨディーチェの写真に惹かれています。日本写真にも強い関心を寄せており、とりわけ曖昧さや影、移ろいゆくものを受け入れる感覚に深く共鳴しています。なかでも須田一政の写真は、緻密に整えられた画面のなかに、どこか現実からずれたような不思議な感情の気配を宿しており、ファン・ベークにとって特に重要な存在です。同時に、日々の体験も作品に大きな影響を与えています。森を歩いているときに目にする光景、静かな室内、天候の変化、思いがけない場所に現れる光の反射など、身近な出来事も創作の大切な源となっています。

《Chlorophyll Trance》を通して自然と交わす対話

ファン・ベークの作品のなかでも、5部作の写真シリーズ《Chlorophyll Trance》は、彼の創作を考えるうえで特に重要な位置を占めています。このシリーズでは、モンステラの葉を大きく切り取り、動きによるぼかしや浅い被写界深度、明暗の反転、緻密な画像調整を取り入れています。モンステラの葉であることは見て取れますが、その姿は次第に記録写真の枠を離れ、曖昧さと静かな緊張感を帯びた複雑なイメージへと変わっていきます。そこから伝わってくるのは、写真が対象を確認するためだけのものではなく、よく知っているはずの生命を新鮮な目で見直す手段にもなり得るということです。

このシリーズで彼が問いかけているのは、身近な植物の形が、ただ眺めるだけの対象を超え、別の感覚へと導く入り口になり得るのかということです。モンステラの葉に開いた穴は、窓や目、あるいは通路のようにも見えます。葉脈は光を帯びた網目となり、実際に植物の内部を流れる生命と、そこから連想される目に見えない力の両方を感じさせます。ぼかしや揺れによって感じられるのは、静止した葉の姿ではなく、呼吸や何かが伝わっていく感覚、そして生命の躍動です。自然を遠くにある特別なものとして見せるのではなく、その表面に近づき、普段なら見過ごしてしまう細部をじっくり見るよう促しています。そうして眺めていると、身近な植物が、思いがけないほど強い感情を帯びて見えてきます。

こうした表現には、日常のなかに潜む強い気配を見つけようとする、ファン・ベークの姿勢がよく表れています。彼が求めているのは、目を奪うような劇的な場面ではありません。注意深く見つめることで、身近なものの印象が静かに変わっていく瞬間です。《Where the Umbrella Waits》《Threshold Presence》《Charged Sky》《Fall Into the Depth》《Ophelia Underwater》《Stratocumulus Reflected》《Arcus photinus (Luminous Arc)》《Mice Bunker Berlin III》《The Path No One Chooses》といった作品にも、空気感やものの見え方、説明しきれない不思議さが繰り返し現れます。どのシリーズでも、実際に出会った風景や物のなかから、心に響く何かを見つけ出そうとしています。現実をありのままに見つめながら、その先にある内面の感覚まで写し出すことが、彼の写真の大きな特徴です。

マルセル・ファン・ベーク:時間、観察、そして写真のこれから

ファン・ベークの日々の制作は、屋外での撮影とスタジオでの編集という、二つの段階から成り立っています。まず屋外では、必要最小限の機材を携え、刻々と変わる光や天候、偶然目の前に現れる光景に意識を向けます。入念に場面を演出するのではなく、反射、壁や地面に残る汚れや変色の跡、植物、影、建物の一部、表面に現れるわずかな変化など、ふと目に留まったものを手がかりに撮影を進めます。身軽に動くことで、その場で得た直感を生かしながら、数秒後には消えてしまうような瞬間にもすぐに反応できます。こうして捉えた光景が素材となり、時間をかけて複数の写真シリーズへと発展していきます。

スタジオに戻ると、編集もまた撮影と同じくらい重要な制作の一部となります。ファン・ベークにとって画像処理は、写真を修正するための作業ではありません。余分な要素を削ぎ落としながら明暗の関係を整え、作品に求める空気感や感情の張りが生まれるまで、一枚ずつ丁寧に仕上げていきます。写真が単独で完結することは少なく、何度も見直し、順序を入れ替えながら、長い時間をかけて一つのまとまりへと育てていきます。こうしたシリーズ制作は、自主出版の写真集にもつながっています。2026年には《Portae Arcanae》の刊行が予定されています。写真を一枚ずつ見るだけでなく、作品同士のつながりや展開をたどりながら、時間をかけて味わえる一冊となります。

今後は、長時間露光や動きによるぼかしをさらに掘り下げ、写真のなかに時間の流れを表すことを目指しています。動きや移り変わる光、長い露光時間によって、見慣れた自然の形が流動的で夢のようなイメージへと変わる可能性に、特に関心を寄せています。そうした作品も、彼が実際に目にした自然の姿を出発点としています。身近な環境に隠れた別の表情を、注意深い観察、緻密な構成、空気の変化を捉える感覚によって引き出すことは、初期から変わらない彼のテーマです。目の前のものをすぐに理解しようとせず、時間をかけて見つめることで、マルセル・ファン・ベークは日常のなかに潜む静かな謎を写真に映し出しています。