「アンネ・マリエンは“描けないもの”を描こうとする。光に満ちた色彩と躍動する画面が、見る者の感覚を鮮やかに呼び覚ます。」
直感が表現になるまで
ベルギーのメヘレンに生まれたアンネ・マリエン(Anne Mariën)は、画家として歩み出す以前から、創作への強い衝動を胸に抱いていました。言葉では捉えきれない美しさ、見るよりも先に身体で感じるもの。そうした感覚への憧れが、彼女の表現の土台になりました。本格的に絵画と向き合うようになるのは大人になってからですが、創作への衝動は長いあいだ胸の奥にあり続けました。大きな転機は2000年です。ベルギーのアーティストであり活動家でもあったフランス・クロースが、ゼンネガットの屋根裏アトリエで開いていた個人レッスンに通い始めます。のどかな風景に包まれたその場所には、自由に試し、自分の感覚を信じることを後押しする空気がありました。常識にとらわれない考え方と、開かれた創作の姿勢で知られたクロースは、マリエンにとって初期の重要な導き手となります。彼のもとでマリエンは、直感に従い、感情を解き放ち、抽象でしか届かないものを描く方法を少しずつ見つけていきました。やがて彼女の絵画は、色の重なり、動き、質感、画面に漂う気配を通して、言葉にならない体験を呼び起こすものになっていきます。
初めて抽象の三連画を描いたとき、マリエンは自分だけの表現に大きく近づきました。その作品は、決まった型や美術の約束事から離れ、湧き上がる感覚に導かれるように生まれたものでした。そこには、新しいことへ踏み出す高揚、枠を越える大胆さ、そして描くことで自分を解き放つ喜びがありました。フランス・クロースは、画面にあふれる鮮やかな色彩と、ためらいのない自由さに強く惹かれます。教えられた技術ではなく、彼女自身のなかから出てきた確かな表現を感じ取ったのでしょう。毎週のレッスンを重ねたのち、クロースは、形式として教えられることはもうほとんどないと告げ、マリエンに自分の力で探求を続けるよう促したといいます。その後、彼女はメヘレン美術アカデミーでさらに学び、技術への理解を深めていきました。それでも、制作の中心にあった伸びやかな自由さは失われませんでした。アカデミーでは、大きな画面に挑み、さまざまな方法を試し、展覧会やアーティストとのつながり、国際的な文化の場にも触れていきます。そうした経験を通して、絵を描くことは彼女にとってより確かな道となりました。厳格な理論に沿うのではなく、感情と直感を頼りに、自らの制作を深めていったのです。
年月を重ねるなかで、アンネ・マリエンの作品には、いきいきとした動きや生命の気配、自然の力をすくい取る繊細な感覚が宿るようになりました。キュレーターのヤン・ファン・ウンセルは、2025年にモナコで開かれた展覧会に寄せて、彼女の絵画を「女性的なエネルギー、生きる喜び、活力を備えたポジティブな抽象」と表現し、画面そのものが放つ自発的な力に注目しました。その自発性は、マリエンの制作に欠かせないものです。彼女の絵は、最初から細かく決められているわけではありません。感情、絵具、手の動き、そして意識の奥にある反応が重なり合い、少しずつ姿を現していきます。自然、生命が芽生える瞬間、エネルギーが移り変わる感覚は、彼女の作品に繰り返し現れます。ただし、それらは花や風景として具体的に描かれるのではなく、光が広がるような色、流れるような筆致、画面に残る余韻として感じられます。マリエンにとって描くことは、自分の感覚を静かに見つめる行為でもあります。そこから新しい感情や、見る人の記憶に触れるような視覚体験が生まれていきます。彼女が描こうとしているのは、目に見える世界そのものではありません。言葉にできず、はっきりした形にもならないけれど、たしかに心を動かすもの。その気配を、抽象絵画のなかに呼び込んでいるのです。
Untitled, 2011
アンネ・マリエン:記憶と感覚がひらく風景
アンネ・マリエンの作品において、自然は感情を伝えるための大切な手がかりです。山や海、森や空は、彼女の画面にそのまま現れるのではなく、その場所に立ったときの光、風、湿度、身体に残る感覚としてよみがえります。旅のなかで出会った風景は、時間をかけて彼女の記憶に沈み、やがてアトリエで、抽象的なかたちや絵肌、色の重なりとなって現れます。マリエンはこれまで、ノルウェー、アイルランド、ギリシャ、スペイン、ポルトガル、クロアチア、スロベニア、ベトナム、タイ、パナマ、アルゼンチン、エクアドル、ヨルダン、カーボベルデなど、雄大な自然に触れられる国々を旅してきました。移り変わる気候、果てしない大地、光を受ける海岸線、地層の表情、刻々と変わる空模様。そうした体験は、写真のような記録ではなく、感覚の記憶として残ります。ベルギーに戻ると、アトリエはそれらを絵画へと変えていく場所になります。完成した作品からは、自然のなかに全身で立っていた感覚が伝わってきます。それでも、そこに説明的な物語や具体的な風景描写はありません。彼女が抽象によって描いているのは、目に見える地形ではなく、心と身体に刻まれた風景なのです。
自然とのこうした結びつきは、マリエンの画面にひとつに定まらない魅力を与えています。作品のなかには、空から眺めた海岸線、水中に広がる地形、顕微鏡の奥に見える生命、雨雲の動き、火山の表面、あるいは宇宙の広がりを思わせるものがあります。しかし、そのイメージはどれかひとつに収まりません。見る人は、広大な風景と小さな生命、外の世界と心の動きのあいだを行き来することになります。彼女の絵画は、ときに大地と宇宙のあいだを漂っているようにも見えます。絵具は、水の流れや霧、堆積した土、削られた岩、植物が伸びていく気配のように画面を動いていきます。その流れによって、作品は完成されたイメージというより、いまも変化を続ける過程のように感じられます。アートコレクターであり、元文化評議会メンバーのフランク・ノーベルスは、マリエンの作品を「生命の全体をつかもうとする、気迫に満ちた試み」と評しました。その言葉は、彼女が絵画を通して向き合っているものの大きさをよく表しています。作品に包み込まれるような感覚があるのは、それが単なる風景の再現ではなく、移動し、見つめ、感じ取りながら積み重ねてきた記憶から生まれているからです。
マリエンの作品からは、ゲルハルト・リヒター、ヘルベルト・ブランドル、デイヴィッド・ホックニー、マーク・ロスコ、カタリーナ・グロッセといった、彼女が敬愛するアーティストたちの影響もうかがえます。戦後の抽象絵画や身体性を重視した絵画の流れを思わせる部分もありますが、その表現はきわめて個人的です。作品によっては、流れるような構成や力強い画面から、アンフォルメルや抽象表現主義、タシスムを連想させることもあります。しかしマリエンの絵画には、実存的な不安や閉塞感へ向かう抽象とは異なる、光を含んだ温かさと再生の気配があります。勢いよく描かれた色や線は画面のなかで自然に均衡を見つけ、計算によって整えられたというより、描くなかでおのずと形になったように見えます。澄んだ青、鉱物を思わせる緑、火山のような黒、鮮やかなオレンジ、鋭い黄色、マゼンタのきらめきが響き合い、色彩そのものが作品に力を与えています。涼やかな色調の作品には透き通るような奥行きが広がり、温かな色彩の作品には強さと官能性が宿ります。どの作品にも共通しているのは、崩壊や絶望ではなく、光や再生へ向かう前向きな力です。
Forming 1, 2019
Forming 2, 2019
素材と動きがつくる、絵具の表情
アンネ・マリエンの絵画には、自由に生まれたような勢いと、緻密に整えられた構成が同時に存在しています。流し込まれた色、幾層にも重なる染み、引きずるように残る跡、身体の動きが刻まれた筆致、薄い膜のように広がる色彩。そうした要素がキャンバスの上で重なり合い、画面はまるで自ら変化を続けているかのように見えてきます。一見すると偶然に委ねられているようでいて、その奥には色や動きを支える確かな構成があります。激しさと静けさ、解放と抑制。その相反するものがひとつの画面のなかで釣り合いながら、生きたリズムを生み出しています。マリエンにとって絵具は、単なる材料ではありません。自然の力や感情の動きを映し出す、生きた存在のようなものです。滴る線は時間の痕跡のように残り、荒れた絵肌は浸食された大地や芽吹きの気配を思わせます。重なり合う色は、記憶や変化の余韻を画面にとどめます。作品は完成された静止したイメージというより、いまもなお変化の途中にあるものとして立ち現れます。
マリエンの制作は、導くことと委ねることのあいだで進んでいきます。アクリル絵具の流れ、削る行為、染み込ませる色、流し込む動き、勢いのある筆致。それらが重なり合うことで、予測できない表情と画面を支える秩序が同時に生まれます。こうした技法は、見た目の効果だけを目的としたものではありません。素材の選び方や扱い方のひとつひとつが、作品全体の空気を形づくっています。ある作品の前では、絵を見ているというより、光や湿度が移ろう場所に身を置いているような感覚になります。また別の作品では、厚みのある絵肌や深い色の重なりから、地層の重さや宇宙の広がりが感じられます。光は表面を照らすのではなく、透ける色の奥からゆっくりと浮かび上がります。その内側からにじむ光が、見る人の感覚に直接働きかけるのです。私たちは意味を探す前に、まずその空気を身体で受け取ります。物語を読み解くのではなく、感覚やリズム、空間の広がりのなかへ自然と引き込まれていくのです。
マリエンの抽象絵画は複雑でありながら、見る人が入り込む余地を残しています。理論や知識よりも先に、感覚へ届くからです。現代の抽象絵画には解釈を求める作品も少なくありませんが、彼女の作品は少し異なります。直感や記憶、想像が溶け合い、画面全体がひとつの世界として立ち上がります。そこでは答えを探す必要はありません。大切なのは、その絵のなかにしばらく身を置いてみることです。彼女の作品に再生の印象があるのも、この開かれたあり方と深く結びついています。暗い色調の作品であっても、そこには停滞ではなく、動きや生命感、かすかな兆しがあります。混沌としていたものが少しずつ光や均衡へ向かっていく。そんな変化が画面のなかで静かに続いています。だからこそ彼女の作品は、国や文化の違いを越えて人々の心に届きます。専門的な知識がなくても、自分自身の感覚を通して向き合うことができるからです。マリエンの絵画は、何かを説明するためのイメージではありません。見る人がその場で体験するものとして存在しているのです。
Energy, 2018
Attraction, 2023
アンネ・マリエン:表現の深化とともに国際的な舞台へ
近年のアンネ・マリエンにとって、2024年に始まったキュレーター、ヤン・ファン・ウンセルとの協働は、新たな展開につながる出来事となりました。この協働をきっかけにさまざまなプロジェクトが実現し、彼女の作品は海外で紹介される機会を大きく広げていきます。同時に、その表現の背景にある考え方や制作姿勢にも注目が集まるようになりました。そのひとつが、ニューヨークの『Whitehot Magazine of Contemporary Art』に掲載されたエッセイ「The unpaintable」です。この文章では、マリエンの抽象絵画がもたらす体験や感覚について論じられました。さらに、個展やグループ展の開催に加え、ベルギー、フランス、モナコ、アメリカ、チェコで開かれた国際アートフェアにも参加しています。アントワープ、メヘレン、クノック、パリ、ニューヨーク、ピルゼンといった都市は、変化を続ける彼女の作品を幅広い観客へ紹介する場となりました。こうした発表を重ねるなかで、マリエンは物語性に頼ることなく、色彩や空気、感覚を通して人の心に働きかける作家として評価を高めています。
国際的な活動を続ける一方で、マリエンは地元メヘレンとのつながりも大切にしています。ホテル・エリザベスに設けられた常設展示は、作品を紹介する場であると同時に、コレクターや宿泊客、訪れる人々と交流する場所にもなっています。旅を重ねながら、アトリエでは制作にじっくり向き合う。その往復のリズムは、彼女の創作を支える大切な要素です。見知らぬ土地で得た体験や風景は、やがてアトリエへ持ち帰られ、静かな時間のなかで作品へと姿を変えていきます。彼女にとってアトリエは単なる作業場ではなく、経験を見つめ直し、新たな表現へ結びつける場所でもあります。外の世界で得た発見と、それを自分のなかで咀嚼する時間。その積み重ねが、マリエンの作品に豊かな奥行きを与えています。国際的な評価が高まるなかでも、制作の核にあるのは直感と記憶、そして自然のエネルギーや変化への関心です。
マリエンにとって次の大きな節目となるのが、2026年冬に刊行予定の初の回顧的モノグラフです。この一冊では、長年にわたる試行錯誤のなかで育まれてきた表現の変化や主題への関心、独自の視覚表現の歩みが総合的に紹介される予定です。現代の抽象絵画のなかで、その存在がますます注目されるいま、この出版は彼女の軌跡を振り返る重要な機会となるでしょう。マリエンの作品は、ひとつの様式や理論だけでは捉えきれません。感情に開かれた姿勢、身体性を感じさせる筆致、自然の変化への鋭い感受性、そして素材への探究心が重なり合い、独自の世界を築いています。彼女の絵画が特別なのは、見る人の感覚に直接語りかけるところにあります。光を含んだ色彩、幾重にも重なる動き、画面に広がる空間の深みを通して、抽象は観念ではなく体験へと変わります。彼女が描いているのは自然や記憶、感情そのものではありません。それらが持つ力や余韻を絵具に託し、見る人のなかに呼び覚ましているのです。




