「私は、見向きもされない素材に新たな価値を与え、それらを、現代美術という“現代の共同宗教”を象徴するトーテムへと変えています。そうすることで、素材に秘められた可能性そのものを、神聖なものとして捉え直そうとしているのです。」
断片から生まれる秩序
ファビオ・ザニーノ(Fabio Zanino)の作品には、混沌の中に秩序を見いだそうとする、人間の古くからの衝動が表れています。彼が向き合うのは、時間とともに変化してきたものです。雨風にさらされ、使い込まれ、ときには偶然の出来事や放置によって傷んでいく。ザニーノは、それを元の状態に戻そうとはしません。錆や色褪せ、擦れ、浸食まで含めて素材の一部として受け入れ、作品へ取り込んでいきます。そこに刻まれているのは、単なる損傷ではなく、その素材が実際に過ごしてきた時間です。捨てられたものにも、それまで使われ、置かれ、変化してきた年月が残されています。そう考えると、何を「価値のあるもの」と呼ぶのか、役目を終えたものに残る過去をどう見るのかという問いも自然に浮かび上がります。ザニーノは、素材に残る時間を消さずに、その形だけを別の関係へと置き換えていきます。普段なら見過ごしてしまうものにあらためて目を向けさせるその姿勢は、壊れたものを直し、工夫を重ねながら使い続けてきた人間の営みともつながっています。使い尽くされたように見えるものにも、なお人の目を引き、感情に触れる力が残されているのです。
制作の中心にあるのは、「切る」というごく単純な行為です。ザニーノ自身が不可欠だと語るこの作業によって、大きな形は小さな断片へと分けられていきます。彼は、その一つひとつを「現実のピクセル」と呼んでいます。切り離された直後は、ばらばらで、互いのつながりを失ったように見えるかもしれません。しかし、それは新たな構成へ移る途中の状態にすぎません。元の用途や形から離れたことで、それぞれの断片は自由度を増し、直感やバランス、視覚的なリズムを手がかりに組み直されていきます。単なるコラージュでも、壊れたものを元通りにする作業でもありません。実際に使われ、時間を重ねてきた素材の気配を残しながら、これまでとは異なる構成を与えるのです。それでも、かつての姿が完全に消えることはありません。錆びた板や古びた看板、欠けたり擦れたりした表面には、それ以前の時間が残っています。傷が模様として見え始め、割れ目が構成の一部として働き始めると、同じ素材でありながら印象は大きく変わります。ザニーノは傷跡を消すのではなく、むしろそれを生かすことで、見慣れたものにこれまでとは違う表情を与えています。
こうしてものを最小限の単位へと分ける方法には、ザニーノが現代社会に向ける視線も表れています。今の生活では速さが求められ、古くなったものは捨て、新しいものへ替えることが当たり前になっています。それに対して彼の作品は、見る側に少し速度を落とし、細部まで目を向けることを促します。一つのものを細かな断片に分けたとき、そのものらしさはどこに残るのでしょうか。用途なのか、素材なのか、積み重なった記憶なのか、それとも組み合わせ方なのか。答えは作品によって変わります。かつて実用品だったものが象徴的な存在となり、誰にも顧みられなかった素材が作品の中心を占めることもあります。組み直された表面には、計算された部分と偶然に生まれた部分、作家の意図と予期せぬ変化が同居しています。そのせめぎ合いが、作品に独特の緊張感を生みます。構成が整えられていても、素材にもともと備わっていた荒さや傷みは失われません。そこに見えてくるのは、古くなったものをすぐに手放すのとは異なる考え方です。残されたものをどう生かせるのか、別の形になったとき何が見えてくるのか。ザニーノのスタジオでは、ばらばらになった断片が、そうした問いを抱えながら一つの秩序へとまとまっていきます。
ファビオ・ザニーノ:イタリア、スペイン、そしてその先へ
ザニーノの歩みを語るうえで欠かせないのが、イタリアとスペインという二つの文化圏です。なかでもアンダルシアで過ごした経験は、若い頃の彼に大きな影響を与えました。異なる土地を行き来しながら育ったことで、それぞれの地域に根づく視覚文化や暮らしのリズム、ものとの関わり方に自然と触れていきます。一つの環境だけを当たり前と思わずに育つと、同じものでも別の見え方があることに気づきます。慣れ親しんだものと異質なものが常に隣り合う環境は、彼の感覚を磨く土壌にもなりました。幼い頃から、芸術が自分の進む道になることを感じていたといいます。それは単なる職業ではなく、ものごとを知り、確かめていくための方法でもありました。のちの作品にも、そうした背景は色濃く表れています。特定の国の様式や一つの系譜に寄りかかるのではなく、異なる文化が交わる場所で生まれる刺激や揺らぎを受け入れてきたのです。日常のものを一つの見方に固定せず、複数の角度から眺める感覚は、形や意味が変化していくものへの関心にもつながっています。人と同じように、ものも一つの役割や意味だけに縛られる必要はありません。ザニーノの彫刻には、ある場所に根を持ちながら、同時に変化へ開かれている感覚が重なっています。
その視野をさらに広げたのが旅でした。ザニーノはサハラ砂漠のような辺境の地を訪れ、ヨーロッパを陸路で長く移動し、その後もほかの大陸へと足を延ばしてきました。そこで得たものは、風景の記憶だけではありません。環境によって道具の形や表面、人々の習慣、さらには暮らしを成り立たせる方法まで変わることを、実際に目にしてきました。厳しい土地や都市から離れた場所では、ものがなぜそのように使われているのかが、よりはっきりと見えてきます。擦れや傷、修理の跡、その場にあるもので補った工夫、繰り返し使われた痕跡には、限られた条件の中で暮らすための知恵が刻まれています。何一つ無駄にせず、残ったものにも次の使い道を見つける。そうした暮らし方は、のちにザニーノが素材を見る目にも深く関わっていきます。また、これまで知らなかった土地や文化の中に身を置くことで、自分にとって当たり前だった感覚が揺さぶられることもありました。彼が今も制作の刺激として大切にしているのは、まさにそうした驚きや発見です。各地を歩き、そこにある暮らしやものの使われ方を観察することは、旅の経験を制作へと結びつける重要な時間でもありました。
そうした経験の積み重ねから生まれたのが、《Decostruzioni》と呼ばれる作品群です。タイトルには「解体」という意味が含まれますが、単にものを壊すことが目的ではありません。一度ばらばらにし、その後に別の関係をつくり直す。そこまでを含めた過程が作品になっています。素材が時間とともに姿を変えていくことへの関心は、まずドローイングに表れ、やがて拾い集めた実物の素材を直接扱う彫刻へと発展していきました。変化したものを描くのではなく、すでに変化を経た素材そのものを作品に使うようになったのです。古びた表面や酸化、擦れも、何かを表現するために再現する必要はありません。素材がもともと持っている色や質感、傷そのものが造形を担います。《Decostruzioni》には、彼自身の歩み、旅で得た経験、日々の観察、そして素材を扱う技術が重なっています。それと同時に、ものと人がどのように関わってきたのかという、より広い視点も含まれています。残されたものを工夫して使い、修理を重ねながら暮らしてきた人々の知恵は、時代や土地を越えて存在してきました。ザニーノは、そうした生活の中で培われた工夫を、その社会的な背景ごと現代の造形へと引き寄せています。
素材、記憶、そして現代のトーテム
ザニーノは、役目を終えたものにも、まだ別の見え方が残されていると考えています。その姿勢はアルテ・ポーヴェラの精神とも通じますが、彼の制作は自身の経験や観察から独自に育ってきました。とりわけ関心を寄せるのは、不要とされたものを別の用途へと生かす、人間の古くからの営みです。ものが十分に手に入らない環境では、手元にあるものを使い回し、役割を変えながら長く使う知恵が培われてきました。ザニーノがそこに感じるのは、欠乏よりも創意です。その感覚は制作にもそのままつながっています。普段なら顧みられない素材を拾い上げ、作品の中心に据える。へこんだ金属片や風雨にさらされた工業製品の一部も、丁寧に組み直されることで、思いがけないほど堂々とした佇まいを見せます。そこには造形上の面白さだけでなく、私たちが素材にあらかじめ与えている序列への問いもあります。高価で上質とされるものだけが特別なのではなく、ありふれた素材にも、目を向けることで初めて見えてくるものがある。ザニーノの作品は、ものの意味が価格だけで決まるわけではないことを示しています。
ザニーノは、こうして拾い上げた素材を、現代美術という「現代の共同宗教」におけるトーテムへと変えている、と語ります。現代美術を宗教になぞらえるこの表現には、真剣さと皮肉が同居しています。トーテムは古くから、共同体の信仰や記憶、帰属意識、守りといったものを象徴する存在でした。工業製品の残骸からトーテムを思わせる彫刻をつくることで、ザニーノはそうした古い象徴の仕組みを、現代の生産と廃棄のあり方に重ねています。もとはありふれた廃材であっても、作品になると、どこか儀式的な佇まいを見せます。大量消費によって次々と残骸が生み出される一方、美術館やギャラリーでは、そこに新たな意味が見いだされていく。ザニーノは、その矛盾を外から指摘するだけではなく、自らの作品の中に取り込んでいます。大量生産と大量消費の果てに残ったものが、それでも人の敬意や関心を引き寄せる存在になり得るのか。その問いを、実際の素材を使って確かめているのです。そうして生まれたトーテムは、現代社会を映す鏡のようにも見えます。私たちが何を捨て、何を崇め、何を忘れ、そして後になって何をもう一度見いだすのか。その価値観の移り変わりが、作品の中に浮かび上がります。
ザニーノのものの見方には、人類学への関心も深く関わっています。彼を形づくってきたのは、体系的な学問だけではありません。回り道のなかで重ねた経験や人との出会い、異なる文化との交流が、大きな意味を持ってきました。だからこそ彼は、ものを形だけで見るのではなく、その背後にある暮らしや社会まで読み取ろうとします。道具や貝殻、看板、傷ついたパネルにも、労働や交易、人の移動、信仰の痕跡が残されています。関心が向かうのは、どんな形をしているかだけでなく、それがどのように使われ、どんな人々の生活と関わってきたかということです。そのため、作品の構成が抽象的であっても、一つひとつの断片には、それ以前の時間を想像させるものがあります。どの素材にも、作品になる前には別の役割があり、別の場所で使われていた時間がありました。ザニーノが制作に強い刺激を与えるものとして挙げるカルチャーショックも、こうした感覚と結びついています。見慣れない習慣や造形に触れると、それまで無意識に受け入れていた自分自身のものの見方が見えてきます。そうした経験を重ねることで観察はより鋭くなり、その感覚がスタジオでの制作へと持ち込まれます。人や社会を見つめる中で得た気づきが、素材の配置や大きさの関係へ置き換えられ、やがて一つの彫刻として立ち上がっていくのです。
ファビオ・ザニーノ:動き続ける時間、形づくられる未来
ザニーノにとって特に重要な作品の一つが、南米への旅をきっかけに生まれた《Decostruzione XCV Totem》です。現地で強く心を動かされたのは、考古学的な資料や日常の道具でした。道具や武器、かつて貨幣として使われた貝殻など、簡潔な形の中に実用性だけでなく、象徴や記憶まで宿すものに惹かれたのです。生活のためにつくられたものが、同時に儀礼や社会の中で特別な意味を持つ。そうしたもののあり方は、帰国後の制作にもつながっていきました。スタジオに戻ったザニーノが作品に選んだのは、森の中で見つけた矢印型の道路標識です。人の進む方向を示す現代の標識と、南米で目にした古い時代の遺物。遠く離れた時代や文化が、一つの作品の中で重なります。標識の表面には、日差しにさらされた跡や錆、長い年月の中で生じた浸食がすでに刻まれていました。ザニーノは、それを整えて消すのではなく、作品の見え方を決める要素としてそのまま残しています。旅先で出会ったものによって視点が変わると、帰ってきた場所の風景まで違って見えることがあります。《Decostruzione XCV Totem》は、南米で得た感覚が、身近な道路標識の見え方を変えたところから生まれた作品でもあります。
日々の制作でも、さまざまな経験や出会い、集めてきた素材が少しずつ積み重なり、やがて一つの作品へとまとまっていきます。ザニーノ自身、その過程を「堆積」と表現しています。きっかけは、オフロードを走っている途中で偶然見つけたものかもしれません。蚤の市を歩いているときや、誰かから「これが何になるのか見てみたい」と物を手渡されたことから始まる場合もあります。講演やワークショップで出会った人が、後になって素材になりそうな断片を送ってくることもあり、そうして手元に集まるものは少しずつ増えていきます。スタジオに入ってからは、さらに時間をかけて素材と向き合います。汚れを落とし、表面を確かめ、どこを切るかを決め、大きな平らな作業台の上に一つひとつ並べていきます。その作業は、モザイクを組む感覚に近いといいます。大切なのは、単に部材をつなぐことではなく、それぞれをどこに置けば全体にリズムが生まれ、断片同士の関係が最もよく見えるかを探ることです。一つの作品だけに集中することは少なく、いくつもの作品を同時に進め、その中のいくつかが時間をかけて完成へ近づいていきます。どれを仕上げ、どれを残すかも、最初から決まっているわけではありません。見続け、考え続ける時間の中で、作品として必要な形が次第に定まっていきます。
現在は、こうした「解体」と「再構成」の考え方を、静止した物体だけでなく、動きや時間そのものへ広げようとしています。その一つが、キネティック・スカルプチャーや映像作品への取り組みです。《Decostruzione Video I》では、波の動きを細かな単位に分け、時間をずらしながら再び一つの流れへと組み直しています。素材を切り分けて「現実のピクセル」として扱ってきた発想を映像にも応用し、出来事や動きもまた、断片に分けて組み替えることができるのではないかと探っているのです。こうした試みからは、一つの表現方法にとどまろうとしないザニーノの姿勢がうかがえます。さらに現在、Nissan Nismoを通じて提供された、事故で損傷したフォーミュラE車両の部品を使った大型彫刻にも取り組んでいます。高速で走るためにつくられたものが静止した彫刻となり、最先端の技術によって生まれた部品が、立ち止まって見るための作品へと姿を変える。事故によって壊れたものが、新たな構成の中で再び形を与えられる点でも、これまでの制作と深くつながっています。拾い集めた金属であれ、映像であれ、機械の残骸であれ、ザニーノが見つめているものは変わりません。時間がものに残す痕跡と向き合い、それを作品の中で組み直すことで、そこに新たな意味を見いだそうとしているのです。




