「私がアートを選んだのではありません。アートが私を選んだのです」
さまざまな土地で育まれた創作
M.の名で活動するオーストラリアのアーティスト、マット・スミス(Matt Smith)。さまざまな土地を行き来してきた経験は、彼の創作活動に大きな影響を与えてきました。ゴールドコーストを拠点に、感情豊かな絵画から身につけて楽しむアートまで、幅広い分野で制作を行っています。その活動はギャラリーの枠を越え、視覚芸術を日常生活へと広げるものです。主にアクリル絵具やオイルスティック、オイルパステルを使ってキャンバスに描き、あらかじめ構図を決めるのではなく、作品と対話するように描き進めていきます。衣服にも表現の場を広げているのは、アートは常に動き続けるものであるべきだという考えからです。作品を身につけた人々が「生きたキャンバス」となり、街の中へ創造性を持ち出すことができます。アートはただ眺めるだけでなく、自ら体験するものにもなるのです。技術的な完成度だけを追い求めるのではなく、色彩や象徴、感情に訴える表現によって人々とつながりたいという思いが、そこにはあります。
1980年代から1990年代にかけて、M.はメルボルン、シカゴ、ロンドンを行き来しながら育ちました。それぞれの都市で触れた文化や芸術の伝統、社会環境は大きく異なり、環境の変化や住み慣れた場所を離れる経験に強い関心を抱くようになりました。また、一つの場所に属しているという感覚と、どこにも完全には属さないという感覚。その間に生まれる微妙な緊張関係にも、長く関心を寄せてきました。各都市で訪れた美術館や目にした建築、さまざまな文化との出会いは、今も制作の重要な手がかりとなり、作品の随所にその影響が見られます。ただし、当時の記憶をそのまま描くわけではありません。経験から受け取った感情や雰囲気を絵画に取り込み、動きや幾重にも重なるアイデンティティー、移り変わる視点を感じさせる作品を生み出しています。異なる文化に触れて育った経験は、M.ならではの表現方法を形づくるうえで欠かせないものとなりました。作品をひと目で解釈するのではなく、鑑賞者がそこにさまざまな意味を見いだせるような絵画を描いています。
M.が絵を描き始めたのは、思いがけないことでした。はじめは自分の内にある思いを表すために描いていましたが、ほどなくしてプロのアーティストとして活動するようになります。早い段階からその作品は評価され、2001年にはシドニー・ロックス・アート・プライズの最終候補に選ばれました。これを機に個展を開催し、ニューヨークでのグループ展にも参加しました。作品は世界各地の個人コレクションに収蔵されるようになりました。当時を振り返り、自分で画家になる道を選んだというより、気づけばその道を歩んでいたのだと語ります。そんな受け止め方は、現在の創作に対する考え方の中心にもあります。制作のすべてを自分の思いどおりに進めようとはせず、作品が自然に形を成していくのに任せているのです。最も力強いイメージは、作家自身と潜在意識にある思考、そしてキャンバスの間で交わされる直感的なやり取りから生まれると信じています。
M.:目に見えないものを描く「ヴィジョニズム」
M.が創作に影響を与えたものとして語るのは、特定のアーティストではなく、思想や神話、象徴、そして自らの人生経験です。彼の絵画は、目の前にある現実を忠実に再現するよりも、自分の内側で物事をどう感じ、受け止めるかを描くことに重きを置いています。制作はエネルギーを交わす対話のようなもので、イメージはすべて自分の力で生み出すというより、自分を介して自然に現れてくるように感じるといいます。直感に従って描くことで、予想もしなかった形や意味が生まれ、鑑賞者も作品に込められた感情や心理に触れることができます。M.にとって、技術的な正確さよりも大切なのは、感情を伝え、人々と心を通わせることです。一枚一枚の絵画は、単にものの姿を描き写すだけでなく、人間の意識そのものを探る作品となっています。
M.の人生に大きな変化が訪れたのは、20代後半のことでした。当時抱えていた個人的な悩みには、アートが何らかの形で関係していると考え、絵を描くことをやめたのです。それから20年間、自らの意思で創作活動から遠ざかりました。しかし、その間も繰り返し考えていた一つの問いが、後に彼の芸術活動を大きく変えることになります。思考と、思考の合間にある心の空間との目に見えない関係を、絵画で表現できないだろうか。M.はその可能性に強く引きつけられていきました。当時はまだ気づいていませんでしたが、この20年間に重ねた思索や感情的な経験が、後に自ら創始する芸術運動「ヴィジョニズム(Visionism)」の思想的、精神的な土台となりました。ヴィジョニズムでは、何が見えるかだけでなく、なぜ自分にはそのように見えるのかを鑑賞者に問いかけます。物事の捉え方と潜在意識にある思考、そして目にしたものをどう解釈するか、その関係を探ろうとする芸術運動です。
ヴィジョニズムの原点は、さらに幼少期の記憶にまでさかのぼります。仕事で出張することが多かった父親は、滞在先のホテルの便箋に短いメッセージと手描きのイラストを組み合わせ、たびたび手紙を送ってくれました。その手紙を読むのは、言葉と絵の両方を手がかりに意味を考える、楽しい謎解きのような体験でした。父親が亡くなった今も、暗号のような手紙を通じて父とのつながりを感じているといいます。隠された意味や象徴的なイメージへの関心には、父親からの手紙が今も大きく影響していると考えています。もう一つ、彼に大きな変化をもたらしたのが、言葉と心理の関係に着目するNLP(神経言語プログラミング)の専門家との協働でした。その人物の支えによって、M.は作品の中で言葉をより自由に取り入れられるようになります。この経験はヴィジョニズムの考え方を明確にする助けとなり、創作の方向性だけでなく、個人的な困難から回復していく過程にも深い影響を与えたといいます。こうした経験を重ねるうちに、作品に触れる人々の人生に色彩と希望、そして新たな活力を届けたいという思いが形づくられていきました。人生には再出発の機会があるという考えは、今やM.の創作哲学とアーティストとしてのあり方に欠かせないものとなっています。
記憶と存在、絵画に宿る感情
M.は、自分の創作を代表する作品を一つだけ選ぼうとしても、どうしても絞りきれないといいます。一枚ごとに異なる感情や体験が込められ、自分自身のさまざまな一面が表れているため、どれも深い思い入れのある作品だからです。個々の作品に順位をつけるのではなく、作品全体を通して自身の内面がさまざまな形で表れていると考えています。M.にとって絵を描くことは、単にイメージを生み出すだけでなく、自分自身が変化した瞬間や、自分を見つめ直した時間、新たな感情に気づいた瞬間を記録することでもあります。どの絵にも特別な意味があるのは、制作のたびに直感と記憶、創作への衝動が異なる形で交わっているからです。
M.にとって特に印象深かったのは、以前に描いた自分の作品が、ある人の家に飾られているのを偶然目にしたときのことです。その絵を見た瞬間、制作当時の記憶が一気によみがえりました。絵を描いていた部屋の様子や光の加減、背景に流れていた音楽、そして作品が生まれたときの雰囲気まで、次々と思い出されたのです。しかし、それは単に懐かしい記憶を振り返るだけの体験ではありませんでした。まるで絵のほうも自分を覚えていて、再び出会ったことに気づいてくれたかのように感じたのです。作家と作品が互いに応じ合うような強い感覚を通じて、制作中に生まれた感情的な結びつきが、時を経ても失われていないことを実感しました。
この体験には、M.の絵画に対する考え方がよく表れています。彼にとって、絵画は記憶や感情をとどめた、生きた記録なのです。作品はアトリエを離れた後も、描かれたときの感情を残したまま、それぞれの場所で新たな時間を重ねていきます。そして、作品を自宅に迎えた人々の思い出が、作家自身の制作体験と重なることで、そこには新たな意味が幾重にも生まれていきます。作品の解釈は一つに決まっているわけではなく、見る人との関わりによって変化し続けるという考え方は、M.の創作哲学にも深く関わっています。鑑賞者もまた、自分なりの感覚や物の見方を持って作品と向き合い、そこから新たな対話を生み出すことができます。こうした自由な解釈を認める姿勢は、ヴィジョニズムの中心となる理念をさらに裏付けています。
M.:日々の創作から生まれる光
M.の暮らしには、いつも創作があります。アトリエを離れている間も、新しいアイデアや色の組み合わせ、次に描く作品の構図、これから試してみたい表現など、絶えず考えを巡らせています。創作と日常生活を切り離すことなく、一日を通して自由に発想を広げているのです。こうした日々の積み重ねが制作意欲を高め、さまざまな形で新しい作品を生み出す原動力となっています。表現方法は広がっても、象徴や物事の捉え方、感情の変化といったテーマは共通しています。M.にとって創作とは、実際に作品を制作する時間だけに限られるものではありません。日々の暮らしの中で世界を観察し、自分なりに感じ取り、解釈していくことも、創作活動の大切な一部なのです。
現在進めているいくつかの大きなプロジェクトにも、こうした幅広い活動が表れています。個展に向けて数多くの新作絵画を準備する一方、書籍の制作にも取り組んでおり、出版と展覧会の両方に合わせた短編ドキュメンタリー映画も制作しています。また、自身の絵画表現をファッションに取り入れる新たなキャンペーンを展開し、アートをあしらった衣服を手がけるブランドの活動も広げています。アートをギャラリーの外へ届けたいという長年の思いは、こうした取り組みにも表れています。絵画や書籍、映像、ファッションなど、さまざまな方法で物語を伝えようとするM.。それぞれの活動には、人とのつながりや象徴、個人の変化を大切にする一貫した考え方があります。
数々の大きなプロジェクトに取り組むM.ですが、最も充実感を覚えるのは、ごくささやかな日常のひとときです。雨の日、音楽をかけ、料理を火にかけておく。愛犬が静かにそばで過ごすアトリエで、誰にも邪魔されずに絵を描く時間が何より好きだといいます。そんなとき、絵を描くことは宇宙と親密に語り合うような体験となり、自分を見失うと同時に、再び自分を見つけ直すような感覚になるのだそうです。こうした穏やかな日々の過ごし方にも、M.の創作活動に共通する考え方が表れています。創作で大切なのは、人に何かを見せること以上に、今この瞬間に心を向けること。そして、何を描くかという確かな答えを求めるよりも、自然に生まれてくるイメージを受け入れる柔軟さを持ち続けることなのです。




