「私の絵は、あらかじめ構成を決めて描くのではありません。描くうちに、少しずつ形になっていくのです。」
絵画へとたどり着くまで
創造する自分に、早くから気づくとは限りません。トリシア・シーモア=バリア(Tricia Seymour-Barrier)が本格的に絵画の道を歩み始めたのは、人生経験を重ねてからでした。長年にわたり事業を築き、起業家として多くの課題に向き合ってきた彼女は、やがて、自分の中に以前からあった思いや感覚を最も素直に表せるものが絵画だと気づきます。もっとも、それはそれまでの人生を捨てて、まったく新しい道へ進むということではありませんでした。アイデアを形にし、そこに意味を与えていくことは、仕事の中でもずっと続けてきたことだったからです。事業を通して培った考える力や粘り強さに加え、創造する力は絵画だけに限られないという実感も、現在の制作に生かされています。
子ども時代の環境も、彼女のものの見方に大きな影響を与えました。想像したり、疑問を持ったり、実際に試してみたりすることが、日々の暮らしの中にごく自然にあったといいます。現実的なことと想像することを切り離すのではなく、身の回りのものをよく見て、自分なりに考える。そうした経験を通して育まれた好奇心や自由な発想は、その後、仕事に多くの時間を費やすようになってからも失われることはありませんでした。
だからこそ、年月を経てあらためて制作に向き合ったときも、彼女にとってそれはまったく新しいことを始める感覚ではありませんでした。むしろ、長いあいだ離れていたものの続きを始めるように感じられたといいます。シーモア=バリアにとって絵画は、感情や記憶、直感、思考など、言葉だけでは表しきれないものを形にするための手段です。その作品に最初から落ち着きや深みが感じられるのは、長年にわたって積み重ねてきた経験が制作の背景にあるからでしょう。流行や誰かの表現に頼るのではなく、自分自身が生きてきた時間をもとに作品を生み出しています。
トリシア・シーモア=バリア:直感に導かれて描く
シーモア=バリアの作品は、具体的な対象を描かない抽象表現を基本としています。しかし、そうした分類だけでは、彼女がどのように絵を生み出しているのかを十分に説明することはできません。制作を始めるとき、あらかじめ描くものや物語、象徴的な意味を決めておくことはありません。まず、自分の内側に意識を向け、そのときの感情や感覚の変化に耳を澄ませながら、最初の一筆を置いていきます。何をどう描くかを厳密に決めるのではなく、その場で生まれる直感に任せながら進めていくのです。そうすることで、感覚や動き、本能的な反応が少しずつ画面に現れ、作品そのものが形を成していきます。
その過程で大切な役割を果たすのが、筆の動きと色彩、そして画面に生まれる動きです。具体的な風景や物を描く代わりに、それらを通して感情を直接表しています。大きく走る一筆が勢いを感じさせることもあれば、ためらいや解放感、緊張を思わせることもあります。しかし、そこに特定の意味が決められているわけではありません。だからこそ、見る人は作品を自分自身の感覚で受け止めることができます。「何が描かれているのか」を読み解くのではなく、「自分は何を感じるのか」に目を向ける。こうして見る人の感じ方に委ねる余地があるからこそ、彼女の抽象表現には独自の力が生まれています。
彼女の制作を考えるうえで、繰り返し現れるのが「今この瞬間に向き合う」という姿勢です。シーモア=バリアが求めているのは、作品の表面的な意味を探したり、頭で分析したりすることではありません。すぐに答えを見つけようとするのではなく、少し立ち止まり、作品と静かに向き合うことを大切にしています。そうすることで、言葉による説明ではなく、実際に見て感じるなかから、それぞれの意味が生まれてきます。速さや明確な答えを求めがちな現代にあって、彼女の絵画は、時間をかけて感じ取ることの大切さを伝えています。まだ言葉にはできなくても、そこに何かを感じる。その感覚を急いで説明しようとせず、まず受け止めることに、彼女は価値を見いだしているのです。
影響を受けた画家たちと、静かに見つめること
シーモア=バリアが惹かれるのは、抽象表現によって感情や目に見えないものを描こうとしてきた画家たちです。なかでも、ワシリー・カンディンスキーは彼女にとって重要な存在です。色や形によって、目には見えない感情や精神的なものまで表すことができるというカンディンスキーの考えは、世代を超えて多くの芸術家に共感を呼んできました。シーモア=バリアの作品にも、絵画には形や色そのものを超えて、言葉では表しにくいものを伝える力があるという考えが感じられます。そうした点で、彼女の作品は、感情や人の意識を重んじてきた抽象絵画の考え方にも通じています。
もう一人、シーモア=バリアが強く共感しているのがヘレン・フランケンサーラーです。フランケンサーラーは、絵具の流れやにじみ、開放感のある表現を通して、絵画の可能性を大きく広げました。絵具を思い通りに動かそうとするのではなく、その自然な流れや偶然に生まれる変化を受け入れる姿勢は、作品を細かくコントロールするよりも、描くなかで現れてくるものを大切にするシーモア=バリアの制作にも重なります。二人の作品そのものは異なりますが、制作の途中で起こる予想外の変化や発見を大切にしている点は共通しています。絵を描くことは、あらかじめ決めたものを形にするだけではなく、描きながら新しいものを見つけていくことでもあるのです。
しかし、彼女の制作の軸となっているのは、特定の画家や様式ではありません。何より大切にしているのは、静けさや直感、そしてまだはっきりとした形になる前の微かな兆しに意識を向けることです。一見すると静かな行為ですが、実際には、焦らずに待つこと、すぐに答えを出さないこと、そしてまだ形になっていないものを信じることが求められます。そうした制作のあり方は、完成した作品にも表れています。見る人もまた、すぐに意味を決めつけるのではなく、少し時間をかけて作品と向き合い、自分の中に何が生まれてくるのかを感じるよう促されるのです。
トリシア・シーモア=バリア:《Geometric Alchemy》と、その先へ
シーモア=バリアにとって、今も特に思い入れの深い作品のひとつが《Geometric Alchemy(幾何学の錬金術)》です。テクスチャーペースト、アクリル絵具、スプレーペイント、マーカーを組み合わせて制作された作品ですが、彼女が大切にしているのは、使われた技法や素材そのものではありません。時間を置いて見返すたびに、形や質感、画面の動きが以前とは違って見え、そのたびに新しい発見があるといいます。完成した後もひとつの見方に収まらず、見るたびに印象が変わっていくこと。それが、この作品を彼女にとって特別なものにしています。
「錬金術」という題名からも、この作品が持つ変化のイメージが感じられます。厚みのある質感が画面に奥行きを与え、幾何学的な形や重ねられた線が互いに作用することで、見るたびに異なる印象が生まれます。シーモア=バリア自身、この作品について、自分が意図して作り上げたというより、自然に現れてきたように感じると語っています。この言葉は、彼女の制作に対する考え方をよく表しています。最初から完成形を決めてそこへ向かうのではなく、画材が見せる変化や、そのときの直感を受け入れながら、少しずつ作品の形を見つけていくことを大切にしているのです。
シーモア=バリアは、制作に向き合う時間だけでなく、作家として活動していくための日々のさまざまなことも、創作の一部として受け止めています。絵を描く前には、まず気持ちを静め、何を描くかを決めつけずに、自然に浮かんでくるものを待ちます。そして、素材が見せる変化と自分の直感の両方を確かめながら、少しずつ画面をつくり上げていきます。今後も、あらかじめ明確な計画を立てることより、こうした制作のあり方をさらに深めていきたいと考えています。そのとき生まれる感覚やわずかな変化を丁寧に受け止めながら、より繊細で深みのある表現を追求していきます。




