「《Threads of Distance》は、私自身の歩みと素材をめぐる実験を結びつけ、記憶、身体、環境が交わる空間をつくる作品です。」
動きと静けさのあいだで
ジンイー・ヤン(Jingyi Yang)は、布という素材を通して、記憶やアイデンティティ、そして人と空間との関係を探ってきたテキスタイル作家です。中国の内モンゴルで生まれ育ち、現在はニューヨークを拠点に活動しています。広大な土地に根づく遊牧の文化と、都市での定住生活。大きく異なる二つの環境を経験してきたことが、現在の作品にも深く結びついています。ヤンはこの対照を、自らの体験だけでなく研究の対象としても見つめてきました。パーソンズ・スクール・オブ・デザインの大学院でテキスタイルデザインを学ぶなかで、その関心は布を装飾や実用品の枠から解き放つインスタレーションへと発展していきます。そこでは布は単に見るための対象ではなく、鑑賞者の動きや感じ方に働きかける存在となります。作品のあいだを歩き、距離や位置を変えることで、空間の感じ方だけでなく、そこに呼び起こされる記憶や感情も変化していきます。身体を包み込むような広がりを持ちながら、一人ひとりの感覚にも静かに触れる。ヤンの作品は、布によって空間をつくり変えながら、そこにいる人の身体や他者との関係にも目を向けています。
ファッションデザインを学んでいた頃、ヤンは衣服の構造や表面装飾を通してテキスタイルに触れるようになりました。やがて、布は身体から離れても、それ自体で意味を持つ表現になり得るのではないかと考えるようになります。この発想の変化が、その後の制作を大きく方向づけました。身体を覆うための素材だった布を、立体をつくり、空間そのものを形づくるものとして捉えるようになったのです。広がる、折り重なる、宙に浮かぶ、人の動きに反応する。そうした布の性質を生かしながら、組み替えのできる構造や、鑑賞者が直接関われる作品へと表現を広げていきました。身につけるものから空間をつくる作品へ。その変化のなかでヤンが探っているのは、素材のあり方によって、美術作品と建築、そして身体で感じる体験との境界をどこまで広げられるかということです。
現在の制作には、伝統的な手仕事と新しい技術の両方が取り入れられています。手織り、TC2織機によるデジタルジャカード、編み、バイオファブリケーションなど、性質の異なる技法をひとつの作品のなかで組み合わせています。受け継がれてきた技術と新たな試みを結びつけることで、文化的な記憶を映し出すと同時に、これからのテキスタイル表現の可能性も探っています。作品を通して繰り返し見つめているのは、変化すること、そして人と空間との関係です。その背景には、幼い頃に親しんだ広大な風景と、人々が密接につながる地域社会での経験があります。布でつくった構造を建築空間のなかに置くことで、人と作品の距離、人と人との距離、さらに移動によって変わっていくそれらの関係を浮かび上がらせます。暮らす土地や文化、環境が変わるとき、人のアイデンティティはどのように変化していくのか。ヤンは、見る人自身がその空間を歩き、身体で体験することを通して、その問いへと静かに導いています。
ジンイー・ヤン:個の物語から文化の風景へ
ヤンの制作は、ファッションデザインから始まり、素材そのものへの関心を深めるなかで、次第に現在の方向へと広がっていきました。初期には、シルエットや質感を通して自分の感情を衣服に表すことを重視していました。そうした内面的な表現を続けるうちに、感情や表現はそもそも何によって生まれるのかという問いが、次第に強くなっていきます。そこから関心は自分自身の内側だけでなく、人が暮らす環境や歴史、文化の変化が、ものの見方や感じ方にどのような影響を与えるのかへと広がっていきました。個人的な経験を語ることから、より多くの人々に共有される経験を見つめることへ。その変化のなかで、故郷である内モンゴルの移り変わる風景は、受け継がれてきたものと変わっていくものを考えるための重要な手がかりとなりました。テキスタイルによるインスタレーションは、こうした考えを具体的な形にし、見る人が実際にその空間で体験できる表現へとつなげています。
現在の作品では、伝統的な手仕事と新しい素材や技術を組み合わせながら、独自の表現を築いています。そのなかで重要なテーマのひとつとなっているのが、人と人との距離や位置関係を扱う「プロクセミクス」です。作品の大きさや配置を細かく考えることで、距離が人と人を近づけることもあれば、反対に緊張を生むこともあるという関係に目を向けています。文化の変化もまた、制作の中心にあります。とりわけ、急速な近代化のなかで遊牧文化の習慣が少しずつ薄れていく状況に関心を寄せています。そこにあるのは、失われつつある過去への郷愁ではなく、変化を避けられないものとして受け止めながら、人や文化がそのなかでどのように姿を変えていくのかを見つめる視点です。素材も重ねたり、形を変えたり、組み直したりしながら扱われ、感情の変化や環境への適応を思わせる姿へと変わっていきます。ヤンにとって作品の意味は、完成したものを眺めるだけで生まれるのではなく、人が作品と関わるなかで少しずつ立ち上がってくるものです。
変化は、ヤンの作品で扱われるテーマであると同時に、制作の方法そのものにも表れています。感情の揺れ、文化や土地との関係が変わる経験、そして素材そのものの変化が重なり合い、現実に根ざしながらも新たな可能性を感じさせる作品が生まれています。自然由来の素材とデジタル技術を組み合わせることで、現代社会の複雑さを映し出しながら、素材に直接触れることで得られる感覚も大切にしています。インスタレーションの多くは、作品の周囲を歩いたり、その内部を通り抜けたりすることで、見る位置によって異なる表情を見せます。人がどこに立ち、どのように動くかによって、作品の受け取り方そのものが変わるからです。見るだけではなく、身体を通して作品を経験することを重視している点も、ヤンの制作を特徴づけています。受け継がれてきた物語を問い直しながら、人が同じ空間をどのように感じ、互いにどのような関係を結ぶのか。ヤンは作品を通して、そうした新たな可能性を探っています。
育った環境と、芸術との出会い
ヤンの制作には、幼い頃に過ごした環境の記憶が深く息づいています。内モンゴルの、素朴で開放的な街で育った経験から、飾り立てないものの率直な魅力を大切にするようになりました。自然や地域の人々と身近に接する暮らしのなかで培われた感覚は、現在の素材選びにも影響しています。また、広がりを感じさせながらも落ち着きのある空間構成にも、そうした幼少期の経験が反映されています。織られた布の表情や宙に吊られた形からは、風の吹き抜ける風景や、人々がともに暮らす場のリズムを思わせる気配が感じられます。ただし、それらが具体的な風景として描かれるわけではありません。記憶は、作品全体の空気や構造のなかに間接的に現れます。華やかな効果を求めるのではなく、素材や自身の経験に正直であることを大切にする姿勢も、こうした記憶から生まれています。
ヤンの芸術観を広げた存在として、ルネ・マグリットの影響も挙げられます。見慣れたものを思いがけないかたちで提示する彼の作品に触れたことで、表現とは何かをあらためて考えるようになりました。この経験をきっかけに、テキスタイルによって、ものの見え方を変えることへの関心を深めていきます。ヤンのインスタレーションでは、身近な素材が、それまでとは異なる役割を与えられることがあります。布が建築のように空間を形づくり、バイオマテリアルの断片が有機的な成長を思わせ、組み替え可能な要素が視覚的なリズムを生み出します。幻想的なイメージを描くのではなく、素材の置かれ方や組み合わせを変えることで、普段見慣れているものに別の側面を見いだそうとしているのです。
音楽も、ヤンの制作に影響を与える大切な要素です。HYUKOHやRadioheadなどの音楽に触れることで、感情を過度に強調せず、それでも深く伝える表現への関心が強められてきました。わずかな音の変化が大きな感情の違いを生み出すことに惹かれ、その感覚を素材の配置にも取り入れています。作品のなかでは、柔らかさと緊張、反復と変化といった性質の異なる要素が組み合わされ、独特のリズムをつくり出します。こうした音楽的な感覚は、制作の進め方にも影響し、作品の大きさや密度、空間の流れを直感的に決める際の手がかりにもなっています。育った環境の記憶、芸術との出会い、そして音楽から受ける刺激が重なり合いながら、変化と感情を見つめるヤンの現在の制作につながっています。
ジンイー・ヤン:糸で測る距離
ヤンにとって特に重要な作品のひとつである《Threads of Distance》には、自身の歩みと素材をめぐる実験が重ねられています。TC2織機によるデジタルジャカードと、コンブチャ由来のセルロースを含むバイオテキスタイルの断片を手作業で組み合わせたインスタレーションです。異なる素材を幾層にも重ねることで、文化的な距離、空間的な距離、そして感情の距離という複数の側面から「距離」というテーマを探っています。そこには、現代社会のなかで変化を続ける内モンゴルのアイデンティティと、受け継がれていくもの、失われたり途切れたりするものの両方が映し出されています。機械による精密な織りと、有機的に育つ素材をひとつの作品に取り入れることで、環境や状況の変化に適応していくことも表現されています。繊細さと強さをあわせ持つ表面は、変化のなかで生きることの複雑さを感じさせます。
《Threads of Distance》では、記憶、身体、風景がひとつの空間のなかで交わります。宙に吊られた布のあいだを歩き、その周囲を移動することで、見る人は作品との距離を絶えず変えていきます。そこには、ヤンが継続して取り組んできた、人と人、人と空間との距離を考えるプロクセミクスの視点も表れています。また、作品に使われるバイオマテリアルは、湿度や光、触れることによって状態が変化します。時間とともに変わっていく素材を取り入れることで、変化を一度きりの結果ではなく、続いていくものとして捉えるヤンの考えが示されています。この作品で描かれる距離は、何かを隔てるものであると同時に、異なるものを結びつけるものでもあります。文化的な伝統も、過去のまま切り離して保存されるのでも、近代化によって消えてしまうのでもなく、新しい環境との関わりのなかで形を変えながら続いていくものとして捉えられています。
こうした作品を生み出すために、ヤンは日々の制作でも時間をかけて素材と向き合っています。アトリエでは、直感的に描いたスケッチや、おおまかに思い浮かべた形を出発点に、まず素材を試すことが多いといいます。そこから繊維や構造、技法を何度も試しながら、思いがけず生まれた結果も取り入れ、作品の方向を探っていきます。読書やドキュメンタリーの鑑賞、さまざまな視覚資料の調査も、制作に欠かせない過程です。今後は、2026年4月から5月にかけてオレゴン州のPine Meadow Ranch Center for Arts and Agricultureで行われる滞在制作を通して、《Threads of Distance》シリーズをさらに発展させる予定です。内モンゴルで育った背景から得た環境や文化の要素と、現地の風景を重ね合わせながら、環境が変わることでアイデンティティや素材がどのように変化するのかを、新たなインスタレーションとして表現しようとしています。




