「誰の中にも創造する力があり、アートを通して自分を表現できると私は思っています。必要なのは、自分自身の声に耳を傾ける時間を持つことだけです。」

e.wasserhase with Hyrdra design
Emerald Buddha

心理学から、新たな創作の歩みへ

e.ヴァッサーハーゼ(e.wasserhase)の制作には、科学的な知識、世界各地で積んだ経験、そして自然との深いつながりが生かされています。ドイツのハンブルクに生まれた彼女は、中国の干支で「水の兎」の年に生まれたことから、ドイツ語で「水のウサギ」を意味する「Wasserhase(ヴァッサーハーゼ)」をアーティスト名に選びました。そこには、水の兎が象徴する静けさ、調和、平和、心の安定といった意味も込められています。ジュネーブの世界保健機関(WHO)で長年にわたり国際的な仕事に携わり、その間、ドイツ、イギリス、フランス、スイスで暮らしながら世界各地を訪れました。その後は、ポルトガルのアルガルヴェとスペインのアンダルシアの両方を拠点に生活しています。美術を専門的に学んだ経験はありませんが、心理学の学びを通して、人の行動や心の健康、そして社会の仕組みが人々の暮らしに及ぼす影響について考えてきました。彼女にとって心理学と創作は別々のものではなく、人間をより深く理解し、心のバランスを取り戻していくうえで、互いを補い合うものです。そうした考えは現在の制作にもつながっており、作品では見た目の美しさだけでなく、創作によって心を整えること、自分自身を見つめ直すこと、そして人として成長していくことも大切にしています。

本格的にアートへ向かうようになったのは、多忙を極める仕事を続けるなかで、少しずつ創作の時間を増やしていった結果でした。その間にも絵画や彫刻、石彫などさまざまな表現を試し、南ヨーロッパへ移ってからは陶芸にも取り組むようになります。大きな心の転機となったのは、母親を亡くしたことでした。母親は70歳になってから絵を描き始め、その後の5年間、創作に夢中になって充実した時間を過ごしました。人生の後半になって新たな創造性を見つけた母の姿は、ヴァッサーハーゼの心に深く残り、年齢や置かれた状況にかかわらず、人は成長し続けることができるという思いを強くしました。この経験は、生涯学び続けることの大切さをあらためて感じるきっかけにもなり、分析を重視する仕事に長年携わってきた彼女が、自分の中にある創造性にも積極的に向き合う後押しとなりました。創造する力は誰にでもあり、自分の内なる声にもう一度耳を傾けるための時間と自由を持てば、それを表現することができる。彼女がたびたび語るこの考えは、制作だけでなく、人生そのものに対する姿勢にも深く関わっています。

ポルトガルとスペインで暮らすようになってから、彼女は現在の作風を大きく変えることになる自然素材と出会いました。ユーカリの樹皮やヤシの樹皮、ヤシの葉に、彼女はすぐに惹かれました。単なる自然の残骸ではなく、すでにひとつの造形として豊かな個性と可能性を備えているように見えたからです。風雨にさらされながら形づくられたその表面に向き合うなかで、現在の作品を特徴づける独自の点描技法も生まれました。何千もの点を一つひとつ丁寧に重ねることで、普段なら見過ごされてしまう自然の断片が、細部までじっくり眺めたくなる作品へと変わっていきます。瞑想、太極拳、ヨガ、エネルギーワークも、時間をかけて静かに進める彼女の制作に影響を与えています。最初から形を細かく決めて制作するのではなく、そのときの感覚に従いながら作品をつくっていくのが彼女の方法です。一枚一枚の樹皮の形や表情を受け止め、自然と一緒に作品をつくるような気持ちで向き合っています。そこには自然がつくり出した形への敬意とともに、彼女自身の象徴的な意味、今この瞬間に意識を向けること、そして丁寧に創作することが心の癒やしにつながる可能性が込められています。

Waterblue 3
Hydra

e.wasserhase:自然から生まれる、視覚の瞑想

ヴァッサーハーゼの作品は、素材そのものだけでなく、そこから生まれる感覚も自然に深く結びついています。一般的な画材や支持体を選ぶのではなく、多くの人が見過ごしたり捨てたりする樹皮や自然物の表面に美しさを見いだしてきました。彼女が惹かれるのは、それぞれの断片に刻まれた時間の痕跡です。輪郭や質感、傷や歪みも含め、素材がもともと持っている特徴を生かしながら作品を組み立てていきます。そのため、二つとして同じ作品は生まれません。自然がつくった形に彼女自身の想像力が重なることで、一点ごとに異なる表情が生まれていきます。独自の点描技法によって、画面には非常に高い密度が生まれますが、見る側にもゆっくりと細部を追う時間を求めます。一つひとつ丁寧に重ねられた点には、瞑想するように静かに進められる制作のリズムが表れています。樹皮本来の姿を覆い隠すのではなく、その特徴を引き立てながら、色彩や象徴的なモチーフを重ねていくのが彼女の方法です。自然がつくった形を残しながら、そこに新たな変化を加える。その両方を大切にしています。

彼女の制作に影響を与えてきたものは、ヨーロッパだけに限りません。長年にわたる海外での経験に加え、10代の頃から親しんできたアボリジナル・アートも大きな存在です。その造形表現や、精神性、物語、土地とのつながりを伝える力に、若い頃から強く惹かれてきました。旅先で得た印象が、個々の作品に反映されることもあります。タイへの旅は、蛍光色を使った《Emerald Buddha》(エメラルド・ブッダ)の着想につながりました。また、ニュージーランドに関わる旅で目にしたイメージは、《Personam》(ペルソナム)や《Fluo 11》(フルオ11)などの作品に生かされています。そこには、マオリの仮面や顔に施される意匠から受けた印象も取り入れられています。制作の進め方は、作品によって異なります。最初から明確な構想を持って始めることもあれば、素材を見ながら方向を探っていくこともあります。あらかじめ完成形を決めず、素材と向き合いながら手を動かすことで、作品の意味も少しずつ形になっていきます。完成した一点一点には、記憶や旅の経験、直感、そして目の前にある自然物との関わりが、それぞれ異なるかたちで重なっています。

技法や素材を試し続けることも、彼女の表現を広げるうえで大切な要素です。主に使うのはアクリル絵具ですが、ときには天然顔料も取り入れます。点を打つための道具や筆、スプレーペイントを使い分けながら、さまざまな質感や効果を生み出しています。樹皮には制作前に丁寧に下地を施し、完成後には保護のための仕上げを加えます。素材本来の特徴を損なわず、作品を長く保つためです。金属製のカメや中国の硬貨、羽根など、小さな拾得物を作品に取り入れることもあります。空気の流れでそれらがわずかに動くことで、完成した作品に動きが生まれ、そこに込められた象徴的な意味も変化していきます。最近、特に気に入っているのが蛍光顔料を使った作品です。昼間とは違い、暗闇の中で鮮やかに浮かび上がる色彩が、作品にどこか魔法のような雰囲気を生み出します。ヴァッサーハーゼ自身もその変化に魅了されており、何点かを寝室に飾って、夜になると表情が変わる様子を楽しんでいます。こうした蛍光作品だけを集めた展覧会を、いつか開きたいとも考えています。

Angelwings
Songs for Mother Nature

アート、共同制作、そして環境へのまなざし

ヴァッサーハーゼは、個々の作品をつくるだけでなく、社会や環境について考えるプロジェクトにも取り組んでいます。ヤシの樹皮を使い始めた頃、自然に湾曲した形の中に、女性の胴体やコルセットなどを思わせるものが多いことに気づきました。その発見から生まれたのが《Armadura Amazona》(アマゾネスの鎧)です。さらに、この作品をきっかけに Contemporary Amazons and Artというプロジェクトへと発展しました。そこで彼女が目を向けたのは、女性が持つ強さと傷つきやすさの両方です。今も女性たちが直面しているさまざまな困難を見つめながら、その勇気や粘り強さを作品に表しました。社会的なテーマを扱いながらも、遊び心や美しさ、想像力は失われていません。自然がつくり出した形をそのまま生かすことで、捨てられていた素材が、一人ひとりのあり方と社会や文化をめぐる問題を結びつける象徴的なイメージへと変わっています。

夫との共同制作も、彼女の創作に大きな広がりをもたらしました。ヴァッサーハーゼの作品にも刺激を受け、夫は空いた時間に詩を書くようになります。やがて二人は、それぞれの作品を一冊にまとめ、『Songs for Mother Nature – Art meets Poetry』(母なる自然への歌―アートと詩の出会い)を出版しました。二人の異なる表現を一つの本にまとめる作業は、決して簡単ではなく、根気と忍耐が必要でした。それでも、完成した一冊には二人とも大きな誇りを感じています。この本には、アートと詩の共同作品としての魅力だけでなく、すべての生命を支える自然をもっと大切にしたいという二人の思いも込められています。さらに、ヴァッサーハーゼが以前勤めていた職場に関わる科学分野の編集者から好意的な書評が寄せられたことも、彼女にとってうれしい出来事でした。科学の世界と芸術がこの本を通して結びついたことは、長年、科学的な仕事と創作の両方に関わってきた彼女自身の歩みにも重なっています。

近年は、作品のデザインをタイルやヨガマット、バッグ、ブラウスなどに取り入れる試みも始めています。ギャラリーに展示する作品とは違うかたちで、自分のイメージを日常の中へ取り入れることができるため、彼女にとっては新しい表現を試す機会にもなっています。一方で、どのような形で制作を続けても、根底にある考えは変わりません。現代の暮らしの中で、人は自然から、そして自分自身の内側にある感覚からも、少しずつ遠ざかっているのではないかと彼女は感じています。ここでいうスピリチュアリティは、特定の宗教を指すものではありません。自分が今ここにいることを意識し、人と自然とのつながりに気づき、その大切さを感じることを意味しています。展覧会では、その思いを実感する場面があります。作品に使われているヤシの樹皮を見ても、それが何なのか分からず、人工的に形をつくったものだと思う来場者が少なくないのです。一方、年配の人たちはすぐにヤシの樹皮だと気づきます。世代によるこの違いから、暮らし方の変化とともに、身近な自然に触れたり、それを知ったりする機会が失われつつあることが見えてきます。ヴァッサーハーゼは、こうした小さな出来事の中にも、社会全体で起きている大きな変化を感じています。そして、アートにはその変化について静かに考えるきっかけをつくる力があると考えています。

Armadura Amazona
Joy

e.wasserhase:アトリエを越えて続くつながり

これまで手がけてきた数多くの作品のなかでも、ヴァッサーハーゼにとって特別な意味を持つ一作が《Joy》(喜び)です。大きなヤシの樹皮を使い、何時間も集中して細かな点を重ねながら、彼女の好きな紫を基調とした緻密な作品に仕上げました。制作中は、圧倒されるほどの幸福感に包まれていたといいます。その感覚は、やがて作品そのものと切り離せないものになりました。完成した作品はどれも彼女にとって大切ですが、《Joy》が特別なのは、外からの評価ではなく、制作しているあいだに得たこの体験があったからです。何週間も一つの作品に向き合い、集中を重ねたその過程も、《Joy》を形づくる大切な要素になりました。彼女にとって創作とは、何かを完成させることだけではありません。制作に没頭するなかで生まれる心の状態そのものにも、大きな意味があります。《Joy》には、制作中に注ぎ込んだ感情が今も残っており、心から創作を楽しんだ時間の記憶をとどめています。

作品を迎えてくれる人や、展覧会で出会う人々とのつながりも、彼女がアーティストとして活動するなかで大きな喜びを感じる部分です。誰かが作品を購入してくれるとき、それを単なる売買とは感じません。自分の一部を託した作品がその人の家へ行き、相手が作品を大切に思ってくれることで、展覧会が終わったあともつながりが続いていくように感じるのです。作品を見た人から、「もうヤシの樹皮を見ても、以前のように通り過ぎることができなくなった。あなたの作品を思い出す」と言われることも少なくありません。散歩中や木の手入れをしているときに面白い自然素材を見つけ、わざわざ連絡をくれる人もいます。そうした人たちのおかげで、次の作品に使える新しい素材と出会うこともあります。こうした思いがけない交流を通して、彼女の作品は、普段なら見過ごしてしまう身近な自然に目を向けるきっかけにもなっています。ギャラリーを離れたあとも、何気ない出来事を通して自然を意識するようになる。その変化もまた、作品が人々の中に残していくものの一つです。

アトリエでの制作にも、決まったリズムはありません。創作したいという気持ちはいつ生まれるかわからないため、まったく手を動かさない日もあれば、一つの作品に夢中になり、一日中そこから離れられなくなる日もあります。深く集中すると時間の感覚がなくなり、食事さえ忘れてしまい、夫から「ちゃんと食べた?」と声をかけられることもあります。夜中に未完成の作品が気になり、アトリエへ戻って、しばらく眺めたり、そのまま制作を続けたりすることもあります。こうした時間からも、一つひとつの作品と直感的に向き合う彼女の姿勢がうかがえます。最初から決めた形に無理に当てはめるのではなく、急がず、意識を向けながら作品の声に耳を澄ませ、少しずつ姿が見えてくるのを待ちます。そうして完成した作品には、自然がもともと持っていた個性と、制作を重ねるなかで変化していくヴァッサーハーゼ自身の表現の両方が刻まれています。

Personam
Fluo 11 (mask)