「抽象芸術は、すべてを理解しようとしなくてもいいこと、ただ感じるだけでいいものもあることを思い出させてくれます。」
信念と発見を重ねながら
ポルトガルを拠点に活動するブラジル人アーティスト、ヘレナ・ベゼラ(Helena Bezerra)は、感情や内省、そして自分自身に誠実であることを大切にしながら制作を続けています。美術と芸術技術を学び、学位を取得したベゼラは、これまでナポリ、ヴェネツィア、バルセロナ、ポルト、ヴィアナ・ド・カステロなどで作品を発表してきました。また、ミラノでの「UNIVERSAL GENIUS Leonardo da Vinci Award」や、マドリードでの「International Caravaggio Prize」、ポルトでの佳作など、受賞歴も重ねています。しかし、そうした実績以上に彼女の制作を支えているのは、自らの経験を、見る人に届く視覚表現へと変えていきたいという思いです。作品の一つひとつには、信念や記憶、日々の中で感じ取ったことが映し出されています。ベゼラにとって芸術は、見た目の美しさだけを追求するものではなく、人と人とをつなぐための手段でもあります。絵画やドローイング、コラージュ、さまざまな実験的手法を通して、自分自身の経験と、見る人の感情がどこかで重なり合うような作品を目指しています。自分の感覚に正直であり続ける姿勢は、これまでの歩みを通して彼女の表現を形づくる大きな軸となっています。
ベゼラにとって、創作は生きることそのものに深く結びついています。自分の中にあるものがあふれ出すような行為であり、そこには喜びや希望だけでなく、苦しさや迷いといった感情も含まれています。制作の中では、普段は目に見えない感情が、形や色、質感、動きとなって姿を現します。内側にとどまっていた思いが、言葉を介さなくても誰かに伝わるものへと変わっていく。その過程を、ベゼラはとても大切にしています。作品をつくる理由は、自分を表現するためだけではありません。それを見た誰かが、自分自身の感情や経験をそこに見つけられるかもしれないことも、彼女にとって大きな意味を持っています。作品を通じて生まれる人とのつながりは、今も制作を続ける大きな力になっています。そして、自分が歩んできた道の一つひとつが、誰かにとって新しい道を開くきっかけになればと考えています。そうした思いによって、彼女の作品は個人的な探求にとどまらず、作り手と見る人のあいだに続いていく対話へと広がっています。
ベゼラが抽象表現に惹かれる理由も、こうした考えと深く結びついています。彼女はこれまで、なぜ抽象芸術は理解されにくく、ときに敬遠されるのかを考えてきました。その問いを重ねるなかで、すべてを理屈や説明で理解しようとする必要はないと考えるようになります。何かを理解するより先に、まず感じることがあってもいい。そうした考えが、彼女の作品にも表れています。明確な物語や答えを示すよりも、見る人の感覚や記憶、直感に働きかけることを大切にしているのです。流れるような線、幾層にも重なる画面、感情の動きをそのまま映すような構成によって、作品は見る人それぞれに異なる受け止め方を促します。曖昧さを排除するのではなく、そこに考えたり感じたりするための余白を残すこと。それもまた、ベゼラの表現に欠かせない要素です。芸術には必ず明確な意味がなければならないという考えから距離を置き、心が動いた瞬間や、自分なりの解釈が生まれることにこそ、作品と向き合う深さがあると彼女は考えています。
ヘレナ・ベゼラ:不確かな芸術の道を選んで
ベゼラにとって、アーティストになることは、初めから思い描いていた将来ではありませんでした。本人は冗談めかして「生まれながらのアーティストだった」と語りますが、大きな転機となったのは世界的なパンデミックです。それ以前の彼女は、より安定した将来を求めて理学療法を学ぶつもりでいました。創作は以前から大切な存在ではあったものの、それを仕事にするとは考えていなかったのです。外出が制限され、自宅で過ごす時間が増えるなかで、思いがけず自分自身と向き合う時間が生まれました。再び絵を描き、さまざまな表現を試すうちに、少しずつ将来への考え方が変わっていきます。最初は日々を過ごすために始めた創作が、やがて、自分は何を大切にして生きたいのか、何を目指したいのかを考え直すきっかけになりました。それまで安定していると思っていた職業への考えも揺らぎ、自分にとって本当に充実した生き方とは何か、芸術に人生を注ぐことはできるのかを真剣に考えるようになります。
パンデミックをきっかけに、ベゼラは「安定」や「リスク」についても改めて考えるようになりました。どのような道を選んでも、確実なものが保証されているわけではないと実感したからです。現実的で安全に見える道を選ぶより、自分の価値観や望む生き方に最も近い方向へ進もうと決めました。当然、そこには先の見えない不安もあります。しかしベゼラは、不確かさそのものが人生の一部なのだと受け止めています。だからこそ、先行きが見えないことも受け入れたうえで、自分が本当に進みたい道を選びました。創作を通して、自分が見ている世界や感じていることを、視覚的な表現として誰かに届けていく。その道を選んだことで、芸術もまた、ほかの仕事と同じように意味や目的を持つものだという思いを強くしていきます。そして、自分自身のあり方と、これから仕事として目指していくものが、ようやく一つにつながったと感じるようになりました。
こうした感情との向き合い方は、ベゼラの作品にもはっきりと表れています。彼女にとって作品は、胸の内にある感情を色や形へと変えたものです。なかでも黒と黄色の組み合わせは繰り返し登場し、強いコントラストと複雑な色の重なりを生み出しています。そこに流れるような線や何度も現れる質感が加わり、簡単には言葉にできない感情が画面の中に形を持ち始めます。喜びや悲しみ、憧れ、苦しさは、具体的な場面として描かれるのではなく、色や線、形の力へと置き換えられています。そのため、作品の中では、傷つきやすさと美しさが同時に存在しています。つらい感情を隠すのではなく、それも含めて作品に取り込み、別のものへと変わっていく可能性を見つめているのです。ベゼラにとって芸術とは、自分の経験をそのまま残すものではなく、悩みや思索を、見る人の心にも届くイメージへと変えていくものです。抽象表現や色彩、質感を通して感情を伝えながらも、見る人それぞれが自由に受け取れる余地を残しています。
創作を育む、アトリエの外の世界
ベゼラにとって、創作のきっかけになるのは、美術作品や芸術家だけではありません。自分を取り巻く環境や、日々出会う人々を注意深く見ることも、制作の大切な出発点になっています。人とのやり取りの中には、学ぶこともあれば、立ち止まって考えさせられることもあります。そうした経験を柔軟に受け止めることで、彼女の作品は一つの考え方に縛られることなく、常に変化し続けています。なかでも人との関係は、ベゼラにとって大きな意味を持っています。人によって物事の見方も、感情の表し方も、行動の仕方も異なるからです。人との関わりから生まれた気づきや感情は、やがて作品の中に静かに溶け込んでいきます。身の回りの出来事に目を向け続けることで、創作のきっかけも自然に広がっていくのです。制作を支えているのは技術を磨くことだけではなく、自分が実際に見て、感じ、経験してきたことでもあります。外の世界をよく観察し、自分の内側にも目を向ける。その両方が、ベゼラらしい率直な表現につながっています。
芸術以外の分野を学ぶことも、ベゼラの制作に大きな影響を与えています。美術史だけでなく、人の心理や行動、人と人との関係についても学びを深めてきました。その背景にあるのは、人がどのように考え、何を感じ、どのように他者と関わっていくのかということへの強い関心です。そうした学びによって感情への理解が深まり、作品で扱うテーマにも広がりが生まれています。そして、彼女にとってもう一つ大切なのが信仰です。聖書は、日々の考え方だけでなく、制作の方向を考えるうえでも大きな支えになっています。こうした学びと信仰は、制作の中で自然に結びついています。人生の意味や目的、人が生きるということを考えるとき、その両方が大切な手がかりになっているのです。そのため、ベゼラの作品には強い感情だけでなく、物事を深く考えながら制作する姿勢も表れています。
また、近代美術の作家たちからも多くの影響を受けています。なかでもワシリー・カンディンスキーは、色や線を感情表現へと結びつけた作家として、ベゼラに大きな影響を与えました。ピエト・モンドリアンの幾何学的で整然とした構成からは、画面の組み立てやバランスについて多くを学んでいます。さらに、カジミール・マレーヴィチの抽象表現も、具象にとらわれない表現を追求するうえで大きな刺激となっています。ただし、彼女はこうした作家の表現をそのまま手本にしているわけではありません。抽象表現の可能性を大きく広げた先人たちの作品に学びながら、そこに自分自身の経験や関心を重ね、独自の表現へとつなげています。過去の美術から受け取ったものと、今を生きる自分自身の感覚。その両方を取り入れながら、自分らしい作品を生み出していくことが、ベゼラの制作にとって重要なのです。
ヘレナ・ベゼラ:記憶の断片と、その先へ
これまで手がけてきた作品の中でも、ベゼラにとって特別な意味を持つのが《Notebook 004》です。大学の卒業制作の一部として制作されたこの作品は、その後ポルトで行われたグループ展に出品され、彼女にとって初めてとなる佳作を受賞しました。このノートは単なる一作品ではなく、自分自身をアーティストとして認識する大きなきっかけにもなりました。約一年をかけて制作されたページには、さまざまな構成やコラージュ、試行錯誤、考えたこと、そして制作の中で得た発見が重ねられています。作品をつくることは、そのまま自分自身を理解していく時間にもなりました。ページを重ねるうちに、芸術には、時間が過ぎても失われてしまうことのない自分の一部を残せる力があると気づいたのです。経験や思考、感情の断片が、作品としてこの世界に残り続ける。その実感によって、《Notebook 004》は、公の場でも自分自身の中でも、アーティストとして歩み始めたことを確かめる大切な節目となりました。
《Notebook 004》の意味は、受賞や評価だけにあるわけではありません。ベゼラにとってこの作品は、人に見せるためだけでなく、自分自身に対して「私はアーティストなのだ」と確かめる場でもありました。制作を続ける中で、自分はなぜつくるのか、何を目指したいのか、芸術とどう向き合っていきたいのかが、少しずつ明確になっていきます。一つひとつの作品は、そのときの変化や気づきを残す記録となり、ノート全体を通して、成長していく過程や自分自身を知っていく歩みが形になりました。そして、芸術には時間を越えて何かを残す力があるという思いも、より強くなっていきます。完成したときには、一つの大切な章を書き終えたような達成感がありました。今もこの作品が特別であり続けるのは、創作によって人生の一部を残すことができ、同時に、その先にある新しい道も開いていけると気づかせてくれたからです。
現在は、リサーチや試作を重ねながら、少しずつ作品を形にしていく方法で制作を進めています。主に午後の時間を制作に充て、その時々の目標に沿って作業を進めながらも、途中で思いがけない発見があれば、そこから新たな方向へ進むことも大切にしています。ベゼラにとって、立ち止まって考える時間も制作の大切な一部です。新しい発想は、ふと目にしたものや、普段なら見過ごしてしまうような感覚から生まれることが多いと考えているからです。そうした小さな気づきを取りこぼさないことが、次の作品へとつながっていきます。現在取り組んでいる新たなキャンバス作品のシリーズでは、「不在」がもたらす居心地の悪さを、「沈黙を描く」というテーマを通して表そうとしています。これまでとは異なる表現に挑むため、構成や研究、描き方についても新しい方法を模索しています。自身の経験を改めて見つめ直し、美しさと不穏さの両方を感じさせるイメージへと変えていくなかで、これまでとは違う表現の可能性を探っています。本人にとってそれは、暗く、先の見えない部屋に入っていくような感覚でもあります。しかし同時に、そこには新しい発見や成長、そして感情をこれまでとは違う形で表現していく可能性も広がっています。




