「死ぬ前に何をするのかと問われて、私はアーティストになることを選びました。」
自然、抗議、そして新たな命の鼓動
静けさの中に芯の強さを宿すヴィルボルグ・G・ハンセン (Vilborg G. Hansen)の作品は、長年にわたり世界を見つめ、耳を澄ませ、心で受けとめてきた歩みの結晶です。アイスランドの首都レイキャビクに生まれ育った彼女は、都市の喧騒よりも、その先に広がる無垢な大地に心を惹かれてきました。荒々しくも美しい自然は、彼女にとって安らぎの場であると同時に、社会の矛盾や不正義に思いを巡らせる時間を与えてくれる存在でもありました。人権侵害、制度の歪み、政治の腐敗——こうした問題に深く関心を抱いてきた彼女が、自らの考えや感情をもっとも真っすぐに伝えられる手段として選んだのが、絵を描くという行為でした。彼女の作品は、ただの視覚的表現にとどまらず、内に宿る信念の鼓動がにじみ出る、生々しいまでの力を持っています。
若い頃は政治の世界にも関心を寄せ、一時はその道を志したこともありましたが、次第に言葉だけでは届かない限界を感じるようになります。制度の内側から変えようとする試みに手応えを見いだせず、彼女は心のうねりをそのままキャンバスにぶつけるようになります。創作は、頭で練るというよりも、感情の波に任せて筆を走らせる即興的な営み。過去の記憶やその時々の心情が、色とかたちとなって現れてきます。彼女は作品に明快な意味づけを求めません。むしろ、見る人それぞれの解釈が生まれることに価値を感じており、自分の思いが他者と重なったときには、静かな喜びを覚えると語ります。多様な視点が交差するその瞬間こそ、作品が新たな命を吹き込まれる場でもあるのです。
本格的にアーティストとして歩み出す決意を固めたのは、ある劇的な出来事がきっかけでした。2年前、心停止という生死を分ける体験を経た彼女は、自らの生き方を根底から見つめ直すことになります。もはや現実的な判断や他人の評価に縛られることなく、「自分が本当に遺したいものは何か」と問い直したとき、答えはひとつでした——これまで遠ざけてきた芸術に、心のすべてを注ぐこと。世界的に活躍する抽象画家たちのもとで学び、技術はあくまで出発点として吸収。その後は型にとらわれることなく、自らの直感と切実さを頼りに、独自の表現を追い求めています。時代の鼓動を映しながら、いま、彼女は自由な筆致で新たな風景を描き出しているのです。
ヴィルボルグ・G・ハンセン：語られざる真実を描く
ハンセンの創作には、独特のリズムがあります。それは伝統的な技法に頼るものではなく、感情の衝動と即興的な技術から生まれるものです。彼女は筆を使いません。代わりにキャンバスを床に置き、その上から直接向き合います。水は彼女の重要な共演者となり、絵具を思いがけない軌道へと導いていきます。その流れはしばしば、彼女が描き出そうとする混沌や調和と響き合います。この水平な制作方法によって、彼女と作品とのあいだには強い身体的なつながりが生まれます。絵はイーゼルの上に置かれた遠い対象ではなく、周囲を歩き回り、注ぎ込み、身体ごと向き合うべき「場」になるのです。こうしたアプローチが、彼女の作品に独特の生々しさをもたらしています。思考の痕跡が可視化され、静かな瞑想が色とかたちとなって立ち現れるのです。
ハンセンの作品は、痛みと希望のあいだを行き来します。戦争、強制的な移住、制度的不正義、そして精神的な象徴性——こうした主題が、彼女の視覚と言葉の奥底を占めています。しかしその暗さのなかにあっても、彼女はつねに光を探し続けます。人間の良心、内なる強さ、分断された時代における共有のエネルギー。それらの兆しを、彼女は見逃しません。彼女の絵画は、警鐘であると同時に希望の証でもあります。世界の歪みに目を向けると同時に、そこにまだ残された美しさや可能性をも描き出しているのです。宗教的なイメージや普遍的な象徴もたびたび現れますが、それは説教のためではなく、違いの奥にあるつながりを静かに照らし出すため。分断の時代にあって、共感を呼びかける静かなメッセージなのです。
なかでも、彼女にとって特別な意味を持つのが『クワイア（The Choir）』という作品です。キャンバスの中心には指揮者が立ち、その周囲を取り囲む合唱団の存在が、画面全体に神聖な空気を漂わせています。まるで大聖堂に差し込む光のような静謐さが広がり、言葉や国境を超えた深い結びつきを示唆します。この作品が、2025年に発行される「レオナルド・ダ・ヴィンチ賞」の記念書籍に掲載されることが決まったのも、決して驚くことではありません。エフェット・アート財団のサルヴァトーレ＆フランチェスコ・ルッソによるキュレーションのもと、この栄誉は、現代抽象画の分野におけるハンセンの存在感を改めて示すと同時に、彼女の作品が文化や国境を越えて人々の心に響く存在であることを証明しています。
目覚めを促すアート
国際的な評価や受賞歴を重ねてきたハンセンですが、彼女の創作の根底にある願いは、いたってシンプルで深いものです——「理解されたい」という想い。それは技術の巧みさを誇示することではなく、観る人に立ち止まり、問い、そして感じてもらうことです。物語のような明快な結末を描くことはせず、むしろ断片的な思考のかけらを差し出す。揺らぎと希望が交錯する現代という時代の気配を、視覚的なヒントとして提示しているのです。『The Wall Between Us（私たちの間にある壁）』や『We Are All the Same（私たちはみな同じ）』といった作品では、分断と共通性というテーマに正面から向き合い、言葉に頼らずとも伝わる切迫感と、深い感情を描き出しています。それらの作品は、安らぎを与えるためのものではありません。観る者の内側を揺さぶるためにあるのです。
ハンセンにとって、アートは社会の無関心を揺り動かす可能性を秘めた手段です。彼女が願うのは、ときに不快であっても、目を背けてはならない現実を映し出すものとして自らの作品が鏡のような存在になること。彼女の視野は、美術館やアートフェアの枠にとどまりません。社会そのものにまで広がっています。もっと多くの人が「裁く」よりも「考える」ことを選び、恐れのかわりに共感を、抽象的な理想ではなく現実的な必要として平和を求める、そんな時代の到来を彼女は夢見ています。その思いを、彼女は抽象的なイメージによって語りかけます。決して説教的にならず、観る人が自分自身で気づきを得られるような余白を残して。
将来的なプロジェクトについては明確な計画があるわけではありませんが、ハンセンの創作意欲は尽きることがありません。彼女の制作環境は驚くほど簡素で、キッチンテーブル一つということも珍しくありません。彼女にとって何よりも大切なのは「ひとりの時間」。思考とエネルギーが妨げられることなく流れる、静かな空間です。夜明け前に起きたり、真夜中にふと目を覚まし、描かずにはいられなくなることもあります。その衝動を遮るようなものを、彼女は徹底的に排します。形式張ったアトリエは、ときに距離を感じさせる存在です。だからこそ彼女は、思い立った瞬間にすぐに取りかかれる距離感と、自分の感情に正直でいられる環境、そして何より「偽りのない表現」にこだわりながら、作品が生まれる場所を選び続けているのです。
ヴィルボルグ・G・ハンセン：流れに逆らいながら、自由に描く
ハンセンの創作の根底には、学び続けることへの敬意と、自分自身を絶えず変化させようとする意志が宿っています。彼女がアクリル絵具を選んだのは、明確な理由からではなく、直感に導かれたものでした。さまざまな画材を試すなかで、この素材こそが、彼女が求めていた表現の自由と繊細なコントロールの両方を叶えてくれることに気づいたのです。彼女にとってアクリルは、単なる技法ではなく、複雑な感情や言葉にならない思考を動きのある視覚表現へと昇華させるための「声」となりました。アクリルは彼女の思考のスピードに即座に反応し、水を使った独自の操作にも柔軟に応えてくれます。感情の輪郭が消えてしまう前に、それを確かなかたちでとらえることを可能にしてくれるのです。
個人的なビジョンを大切にしながらも、ハンセンのスタイルは敬愛するアーティストたちの影響を受けて磨かれてきました。とくにジーノ・サヴァリーノやスラジ・パテルの抽象表現における色彩と動きの感覚からは多くを学びました。また、ゲルハルト・リヒターの持つ幅と深みには、彼女自身の制作にも通じるものがあると感じています。ただし、彼女は誰かを模倣することに興味はありません。インスピレーションはあくまで出発点にすぎず、それを取り入れながらも、自分の表現へと静かに溶け込ませていきます。過去2年間にわたって受けた国際的な評価や受賞歴は、外からの称賛であると同時に、自らの信念に沿って歩んでいるという確かな実感が、そこにはあります。ようやく「自分の居場所」を見つけたのだと、彼女は感じているのです。
注目を集めるようになった今もなお、ハンセンの関心は一貫しています——アートを通じて、誠実に語りかけること。彼女にとっての「成功」とは、どこかに到達することではなく、自分が大切にしている価値観と歩調を合わせながら進めている、という確信そのものです。彼女が描く一つひとつの作品は、静かな抵抗であり、目を覚ますための呼びかけであり、そして希望のほのかな光でもあるのです。分断と混乱が渦巻くこの時代に、ハンセンの抽象画は、たとえかたちがあいまいでも、目を凝らせば見えてくる「真実」があることを、私たちにそっと伝えているのです。
