「油絵は常に新たな挑戦を与えてくれます。その技術的な難しさも、本能や直感に従う自由な描き方を追求する楽しさも、私にとっては魅力的です。」
法律家から芸術家へ、新たな世界への挑戦
イギリス北部で育ったジリアン・ホールディング(Gillian Holding)は、幼い頃から「ここを飛び出したい」という強い願いを抱いていました。その思いに突き動かされるように法律を志し、名門法律事務所でキャリアを積み重ね、パートナーの地位に就きます。一方で4人の子どもを育てながら、多忙な毎日を送る人生を築きました。この豊かな経験が、後のアート活動に深い影響を与えることになります。彼女が生まれ育った時代は、1960年代から70年代にかけて変化と自由を求める気運に満ちていました。さらに、80年代から90年代にかけてパリとロンドンで働き、多様な文化に触れることで視野を広げました。しかし、その後の9.11、金融危機、ブレグジットといった世界的な出来事を目の当たりにし、これまでの価値観が大きく揺さぶられます。これらの経験が、法律の道からアートの世界へと方向転換するきっかけとなったのです。
彼女がアートに専念する決断を下したのは、仕事と人生の両面で大きな葛藤を抱えた時期でした。幼い頃から絵を描くことが好きだった彼女は、これを機に自らの情熱に向き合い、アーティストとして新たなスタートを切ります。初めは肖像画を中心とした依頼制作を手掛けていましたが、やがて「他人の期待に応えるだけでは、自分の本当の表現はできない」と気づきます。この思いが転機となり、美術大学で学び直す道を選びました。
大学での学びを通じて、彼女は失敗や挑戦を恐れない姿勢を身につけ、自由な創作の喜びを再発見しました。そして卒業後は、評価や期待に縛られることなく、自分の内面に向き合いながら制作を続けています。ジリアン・ホールディングの創作活動は、自己表現の探求そのものです。法律家としての経験や、激動する世界を目の当たりにした彼女の背景は、作品に独特の奥行きと重みをもたらしています。そして何より、彼女にとってアートは自由と直感を体現する手段であり、人生そのものを映し出す鏡でもあるのです。
ジリアン・ホールディング:予測不能な瞬間との対話
ホールディングの作品は、色と線が絶えず呼応し合うダイナミズムが特徴です。彼女は自らを「絵画的な製図士」と称し、計画性を持った描写と絵の具が自然に生む偶然の動き、その間に生じる緊張感を追求しています。この独特な手法により、ひとつの展示会の中でも、作風や表現が作品ごとに大きく異なります。ある作品では、自由に広がる絵の具の大胆な動きが目を引き、また別の作品では、緻密に描かれた線が画面を支える重要な役割を果たしています。すべてがその瞬間の感情や直感に基づいて生まれる、即興的なプロセスの産物です。
彼女の創作の核にあるテーマは、「不確実性」と「予測不能性」です。計画を立てず、その場の流れに身を任せる制作プロセスは、現代社会が抱える矛盾や混乱を象徴しているといえるでしょう。真実が曖昧になり、対立する価値観が入り混じるポストトゥルース時代において、彼女の作品は観る者にこの不安定な現実と向き合わせます。メディアによって断片化された「現実」がもたらす疎外感や不安定さを、彼女はそのまま作品の中に映し出しているのです。その結果生まれる違和感や不協和音は、私たちの日常に潜む不安定さを思い起こさせ、観る者の共感を引き出します。
彼女のアートは、キャンバスの枠を超え、デジタル化が進む社会全体に問いを投げかけます。シュールなイメージは、私たちが現実とどう向き合い、自分自身の存在をどう見つめ直すべきかを考えさせます。予測不能で不確実な要素を受け入れる姿勢は、ホールディングの作品全体を貫く哲学であり、作品に深みと知的な刺激を与えています。
創作の聖域:理想の空間を求めて
ジリアン・ホールディングにとって、スタジオは単なる作業場ではなく、創作にとって欠かせない場所です。自然光がたっぷりと差し込む広い空間は、大きなキャンバスに思い切り向き合い、離れて全体を見渡す自由を与えてくれます。絵具は色ごとに整然と並べられ、広い作業台はパレットとして活用されています。この整理された環境が、彼女の集中力を支え、途切れることのない創作のリズムを生み出しています。
彼女は静寂を好み、制作中は通知を完全にオフにします。予定や会議が一切入っていない日を選び、雑念を排除することで、作品に向き合う時間を確保しています。この徹底した環境作りが、彼女を深い集中状態へと導きます。その時間、時計の針は消え去り、彼女の内面から湧き上がる創造力だけがスタジオを満たします。
ホールディングのスタジオは、彼女自身の創作への向き合い方をそのまま映し出しています。自由に発想を広げる場でありながら、その基盤には緻密に整えられた秩序が存在します。この絶妙なバランスが、彼女の作品をより力強く、そして深く個性的なものにしています。
ジリアン・ホールディング:インスピレーションと未来への展望
ホールディングの創作には、文学、哲学、視覚芸術など多方面からの影響が息づいています。彼女の作品で繰り返し取り上げられる「日常に潜む不条理」というテーマには、ギー・ドゥボール、モーリス・メルロ=ポンティ、ジョルジュ・ペレックといった作家の思想が反映されています。また、ヴァルター・ベンヤミンやハンナ・アーレントの哲学的視点も、彼女の考え方に大きな影響を与えています。
視覚芸術では、マルレーネ・デュマスやウィリアム・ケントリッジが持つ政治性やメディア表現、ポーラ・レゴの物語性豊かな作風、ナリニ・マラニの革新的なスタイルが、彼女の感性を刺激してきました。さらに、リネッテ・イアドム=ボアキエの力強い筆致や鮮烈な構図にも深く惹かれています。
中でも特に心に残る作品として挙げるのが、マルレーネ・デュマスの『ザ・ペインター』(1994年)です。テート・モダンで展示されたこの作品は、彼女に大きな衝撃を与えました。薄く塗られた絵具が作り出す幽玄な質感や、大胆で感情に満ちた表現は、ホールディングの制作に新たな視点をもたらしました。この作品に引き寄せられるように何度も展示を訪れたという彼女の言葉には、その深い感銘が滲み出ています。
未来を見据えるホールディングは、さらに自由でスケールの大きな創作を目指しています。広い空間に巨大なキャンバスを広げ、たくさんの絵具を使い、何の制約もなく表現の可能性を追求する――そんな環境で創作に没頭することが彼女の理想です。この展望には、制約を超えて新たな境地を切り開こうとする彼女の情熱が込められています。