「いつか、あなたは油絵を描くことになる。」
海の光、そして絵画への目覚め
ヨーケ・ミナール(Joke Minnaar)の抽象画には、記憶や風景、そして色や形に対する繊細な感覚が深く関わっています。1951年、オランダの海辺の町フリシンゲンに生まれ、幼い頃から海を身近に感じながら育ちました。どこまでも続く水平線、移り変わる空の表情、広い水面が生み出す一定のリズム。そうした風景は強く心に残り、その後も長く彼女の感覚を支えてきました。現在の作品に見られる明るい青や、広がりを感じさせる画面構成にも、海辺の光や澄んだ空気の記憶が表れています。やがて絵を描くことは、単なる創作活動ではなく、人生の中心となっていきました。目に見えるものを忠実に再現することよりも、直感や感情に従って描くことを大切にしています。
絵画の道に進むまでには、長い時間がかかりました。17歳で高校の卒業試験を終えたとき、これから先、学校で絵を描く機会がなくなることに気づき、ミナールは大きな空白を感じました。その後は進学し、将来を模索しながら日々を重ねていきます。そんな頃、ふと「いつかあなたは油絵を描くことになる」という内なる声を感じたといいます。しかし、その言葉も日常のなかで次第に遠い記憶となっていきました。しかし、およそ20年後、思いがけない出来事をきっかけに再び絵画へと向かうことになります。オーストリアで冬の休暇を過ごして帰国したとき、目にしたのは、輝く雪山とは対照的な、雨に濡れた灰色のオランダの風景でした。そのあまりの違いに心を動かされ、思わず油絵具を購入します。このときの衝動的な選択が、その後の画家としての歩みにつながっていきました。
最初に描いたのは花の静物画で、肖像画にも挑戦しました。しかし、どちらも彼女が求めていた自由な表現とは違うものでした。転機となったのは、ある晩、あらかじめ題材を決めず、色と形の感覚に任せて描いたことでした。自然に現れてくる形をそのまま受け入れながら制作を進め、初めての抽象画が生まれます。その作品を親しい友人に見せたところ、大きな共感を得たことで、自分が進もうとしている方向への確信も深まりました。それ以来、ミナールは途切れることなく制作を続けています。鮮やかな色の対比、簡潔な幾何学的形態、そして目に見える現実と内面の感覚とのあいだに生まれる心象風景。そうした要素を重ねながら、独自の表現を少しずつ築いてきました。
ヨーケ・ミナール:抽象表現に宿る調和
現在のミナールの作品には、自由な動きと、静かに整えられた構成が共存しています。細長い棒状の形、宙に浮かぶ四角形、円形のアクセント、揺れるような線、ときには星を思わせる形が画面に現れ、それぞれがゆるやかに漂うように配置されています。幾何学的な要素でありながら、硬さを感じさせることはほとんどありません。鮮やかな赤や青、陽光を思わせる黄色のなかで、形は寄り添ったり離れたりしながら、内側から動いているような印象を与えます。ミナールが大切にしているのは、形そのものだけではなく、そのあいだに生まれる間隔や空間です。何も描かれていない部分にも、形と同じだけの表現力があると考えていることがうかがえます。日々のなかで感じ取ったものを、画面の上で調和のある形へと置き換えていく。その姿勢は、長く彼女の制作を支えてきました。
色彩も、何かを具体的に描写するためではなく、作品全体の感情や空気をつくるために使われています。澄んだ原色とやわらかな色の移り変わりからなる明るい画面には、海辺の光や大きく開けた空を思わせる軽やかさがあります。構成が複雑になっても、色同士の調和によって穏やかさとまとまりが保たれています。また、幾何学的な形が硬く見えすぎないよう、色の境目や表面には繊細な変化が加えられています。多くの作品には、水平線を思わせる緩やかな線も描かれています。直線的な形の合間を横切るその線が画面に流れを生み、潮の満ち引きや風の移ろい、水面を少しずつ変えていく日の光のような、自然のリズムを感じさせます。
ミナールの作品では、遠近法によって奥行きをつくるような一般的な表現は用いられていません。いくつもの平面的な形を重ねながら、それぞれが近くにあるのか遠くにあるのかをあえて曖昧にすることで、見る人がゆっくりと画面に向き合える空間をつくっています。枝分かれする茎や星座を思わせる有機的な形が現れることもあり、そこには記憶のなかの風景と内面のイメージが重なり合うような詩情が感じられます。こうした静かな抽象表現には近代美術とのつながりも見られますが、ミナール自身の感覚はあくまで個人的なものです。エジプトの金を用いた美術、フラ・アンジェリコ、多くの印象派の画家たち、パウル・クレー、アメデオ・モディリアーニ、ジョアン・ミロ、アンリ・マティス、マーク・ロスコ、アレクサンダー・カルダー、ケネス・スネルソン、エテル・アドナンなどから影響を受けながらも、それらを手本として再現しているわけではありません。さまざまな芸術家の作品に触れながら、自分自身の自由な感覚と探究を大切にし、独自の表現を築き続けています。
静かなアトリエと創作のリズム
自宅近くの庭にあるアトリエは、ミナールが落ち着いて制作に向き合い、想像を広げるための大切な場所です。ほぼ毎日アトリエで制作しながら、決まった型には縛られず、その日の感覚に沿って筆を進めています。油絵具は乾くまでに時間がかかるため、一枚だけを仕上げていくのではなく、複数のキャンバスを並行して進めるのが彼女のスタイルです。ある作品の絵具が乾くのを待つあいだに別の作品へ移り、頃合いを見てまた戻る。そうした繰り返しのなかで、それぞれの作品は少しずつ形になっていきます。時間をかけて制作するこのリズムが、考えをゆっくり深める余地を生み、作品に漂う穏やかな雰囲気にもつながっています。
制作のきっかけになるのは、見たもの、耳にしたもの、読んだものに心を動かされた瞬間です。ミナールはそれを「魂からのインスピレーション」と表現し、無理に生み出そうとするのではなく、自然に訪れるのを待つものだと考えています。ひらめきが訪れると、まず頭のなかにイメージが浮かび、それをもとに最初の構想をつくります。ただし、その構想どおりに作品が完成するわけではありません。描き進めるうちに形は変わり、色は強くなったり穏やかになったりし、画面のなかでの位置関係も直感に応じて変化していきます。最初に思い描いたものと、制作の途中で新たに見えてくるもの。その両方を受け入れながら作品を変化させていくことが、ミナールの制作の特徴です。
長年にわたって制作を続けるなかで、その表現にも少しずつ変化が現れてきました。抽象性が高まるにつれて画面には以前よりも穏やかさが増し、形も具体的な対象から離れ、それぞれが独自の関係を持つようになっています。近年の作品では、形が画面のなかをより自由に動き、互いに自然な関係をつくり出しているように見えます。《In Motion》は、そうした変化をよく示す作品のひとつです。そこでは複数の形が、みずから動いているかのように、ゆるやかに空間を行き交っています。一方で、変わらず大切にされているものもあります。明るい色彩の調和と、画面全体の均衡を求める姿勢です。表現が変化し続けるなかでも、この二つは一貫してミナールの作品を支えています。
ヨーケ・ミナール:作品に重なる意味、続いていく探究
数ある作品のなかでも、《The Road to It》は、ミナールにとって特に思い入れの深い一枚です。題名の由来となったのは、フランス・ノルマンディーの白亜の断崖沿いを歩いたときの記憶でした。海辺の風景のなかを進みながら、自分自身の内面にも静かに向き合った体験です。この作品に描かれた「道」には、いくつもの意味が重なっています。海の空気、明るく広がる水平線、足元に感じる土や石。実際にその場所で受け取った感覚が残る一方で、その道は人生の歩みにも重なり、目的や行く先を求めながら進み続ける姿を思わせます。外の世界で得た体験と、そこから生まれた内面的な思索がひとつの作品のなかで結びついていることを、《The Road to It》はよく表しています。
作品の題名も、こうした意味を伝えるうえで大切な役割を持っています。ミナールは、作品が形になったあとで、そこに込められた意味を少しずつ見いだしていくことがあります。題名をつけることで、作品に宿る感情や考えが、あらためてはっきり見えてくるのです。そこには、身の回りの世界から受け取ったものと、自分の内面とを結びつけながら制作する、ミナールならではの姿勢が表れています。目にしたものから刺激を受けても、それを抽象表現へと変えていくためには、自分の直感に静かに耳を澄ませる時間が必要です。完成した作品には、ミナール自身が感じたことが込められると同時に、見る人それぞれにも通じる意味や余韻が残されています。
ミナールはこれからも絵を描き続け、自分の表現をさらに磨いていきたいと願っています。彼女にとって絵画は、人生で最も大切な仕事です。長年その思いを支えてきたのは、新しいものへの好奇心と、自分の進む道を自由に選んでこられたことへの感謝でした。先人たちの芸術から多くを受け取りながらも、形同士の新たな関係や、より繊細な感情の表し方を探り続けています。その作品には、長く制作を続けてきた粘り強さと、新しいものを受け入れる柔軟さ、そして幼い頃から親しんできた海や空、記憶の影響が息づいています。鮮やかな色彩、均衡の取れた構成、静かな動きを感じさせる形。そうした要素が重なり合い、見る人を穏やかな思索へと誘う、光に満ちた画面が生まれています。




