「私は沈黙と色彩、そして魂の呼吸で描いています。ほかのすべては、光の反映にすぎません。」
光と内なる呼吸の言語
アヌシュ・ババヤン(Anush Babayan)の歩みは、一般的な芸術家の経歴とは大きく異なります。アルメニアのエレバンに生まれた彼女は、言語学者、画家、そして大学准教授として活動してきました。研究と創作という異なる領域に身を置きながら、その両方を結びつける独自の視点を育んできた人物です。ロシア=アルメニア大学では、「芸術の価値論」「美的コミュニケーション」「創造的アートセラピー」などの講義を立ち上げ、理論と感性が交わる領域を探究してきました。ババヤンにとって教育とは、知識を伝えることにとどまりません。ものの見方を広げ、内面を見つめる契機を生み出し、人が変化していくための場をつくる営みでもあります。彼女にとって学問と芸術は別々の活動ではなく、互いに影響し合いながら深まっていく一つの思索の流れなのです。
ババヤンが絵筆を手にしたのは58歳のときでした。それは彼女にとって、新しい創作の扉が開いた瞬間でもありました。2012年、初めて中国筆を手にしたことを機に、長く内にあった表現への感覚が形になり始めます。その後の制作は驚くほどの速さで広がりました。彼女自身にとってそれは新しい挑戦というより、むしろ本来の場所へ戻ってきたような感覚だったといいます。わずか9か月後の2013年4月には最初の展覧会を開催しました。これを皮切りに、彼女の制作活動は本格的に始まります。その後12年のあいだに、エレバンで14回、ミンスクで7回、さらにアメリカ各州で12回の展覧会を開催し、活動の舞台は国際的に広がりました。2022年には、絵画分野における「パーソン・オブ・ザ・イヤー」を受賞しています。下描きを行わずに描かれる彼女の作品は、文学誌や学術出版物の表紙にも採用され、その作品に宿るエネルギーと感情の明瞭さは心理療法の専門家からも高く評価されています。
ババヤンは、自身の制作について「沈黙と色彩、そして魂の呼吸で描く」と語ります。これは比喩ではなく、彼女の制作姿勢そのものを表す言葉です。作品は下描きに頼ることなく、筆の動きに導かれるように生まれていきます。言語学者としての確かな知的基盤を持ちながらも、彼女の絵を支えているのは言葉で説明できるものだけではありません。静かな集中のなかで描かれる画面には、その瞬間に浮かび上がる感情や心の動きがそのまま表れます。そこに描かれているのは単なる形ではなく、色彩と筆致の重なりのなかに現れる内面の気づきです。彼女の作品は、言葉になる前の感覚をすくい上げるようにして、観る者の前に差し出されています。
視覚言語と聖なるまなざし:二つの作品を読み解く
アヌシュ・ババヤンの作品に向き合うとき、単に分析するだけではその魅力は捉えきれません。彼女の絵は、ただ眺めるためのものではなく、感覚として受け取ることを求めてきます。画面には、呼吸と宇宙、そして人の内側にある意識が静かに重なり合うような空間が広がっています。なかでも『Mother of the Universe』と『Eye of the Universe』の二作品は、彼女が絵画という媒体の枠を越え、観る者の内面に直接働きかけようとしていることをよく示しています。
2019年の『Mother of the Universe』では、宇宙を思わせる広がりの中から、ひとつの顔が静かに浮かび上がります。像ははっきりと形を結びながらも、周囲の空間に溶け込むように現れています。柔らかな銀色と紫の陰影で描かれた顔の左側には、穏やかな静けさが漂います。一方、右側では金色の光と鮮やかな青が大きく広がり、まるで光そのものが生まれる瞬間を思わせます。ここに描かれているのは人物というより、尽きることのない生命の力です。彼女が示す女性像は、受け身の存在ではなく、世界を生み出す力を宿した存在として描かれています。曲線を描く筆致と宇宙的な質感が渦を形づくり、視線は自然と画面の中心へ引き込まれていきます。鉱物顔料を重ねた画面には深みが生まれ、表面にはかすかな輝きが宿ります。そこでは顔と宇宙の境界は曖昧になり、この「母」は宇宙の中の存在というより、宇宙そのものの姿として現れています。
『Eye of the Universe』では、作品の焦点が大きく変わります。画面の中心には、静かにこちらを見つめる一つの眼が浮かび上がります。その周囲には、月食や宇宙の胎内を思わせる円形の空間が広がっています。上方から差し込む細い光は、画面を縦に切り開くように降りてきます。それは神秘的な裂け目のようでもあり、宇宙へと続く道のようにも見えます。中心の球体の周囲では、金色、煙のような灰色、深い藍色が渦を巻き、強い動きを生み出しています。画面の縁には、インクで書いたような筆跡が散り、古い文字やまだ解読されていない記号のような印象を残します。静かなまなざしと、周囲でうねるエネルギーとの対比が、画面に独特の緊張感を生み出しています。この眼は創造の瞬間を見つめているのでしょうか。それとも自ら創り出しているのでしょうか。芸術家のまなざしなのか、それとも神の視線なのか。はっきりした答えは示されていません。観る者に、さらに考えを巡らせる余地が残されています。この作品では、「観る」という行為そのものが問い直されています。視覚とは単に対象を捉えることではなく、内側の意識が目覚める瞬間でもあることを示しているのです。
この二つの作品には、ババヤンの制作の考え方がよく表れています。彼女は物質と精神を切り離して捉えません。中国筆と書画紙を用いるのも、筆の動きやにじみをそのまま生かすためです。作品は綿密な設計から生まれるのではなく、静かな集中の中で次第に形を取っていきます。画面に残る質感や筆の跡、光のにじみには、どこか遠くから届いたような気配があります。その一瞬の現れが、観る者の心に静かな余韻を残します。
アヌシュ・ババヤン:宇宙と魂のあいだで
ババヤンの絵画は、確かな技術と鋭い直感に支えられています。彼女の作品は特定の流派やジャンルに収まるものではありません。東洋思想への関心と、自身の内面を見つめる姿勢が重なり合うところから生まれています。制作には中国筆や宣紙が用いられ、筆の動きやにじみをそのまま生かしながら画面が形づくられていきます。作品は綿密に設計されるのではなく、そのときの感覚に従いながら少しずつ姿を現します。
ババヤンは、完成した構図を思い描いてから描き始めることはほとんどありません。作品に向き合うとき、彼女は祈りや瞑想に入るときのように静かな状態に身を置きます。そこから生まれる画面には、その瞬間に生まれた感覚がそのまま残されています。色彩には紫、金、銀、青といった基本的な色調が多く用いられます。これらの色は、心の奥行きと宇宙の広がりの双方を思わせます。彼女の作品には、精神の広がりや聖なる女性性、そして世界の調和を求める感覚といった主題が繰り返し現れます。ただし、それらは物語として語られるのではなく、筆の動きや光、象徴的な抽象表現によって示されています。
ババヤンの作品は、ただ眺めるだけのものではありません。観る者を、絵の内側の空間へと引き込みます。はじめは抽象的な形に見える画面も、やがて観る者自身の内面を映す鏡のように感じられてきます。そこには人の深い記憶や、神聖な女性性を思わせる気配が重なっています。彼女の作品は特定の意味を示すものではありません。むしろ観る者とのあいだに静かなつながりを生み出します。それぞれの絵は、感情や直感を通して向き合う、瞑想のような体験をもたらします。展覧会では詩や音楽が取り入れられることも多く、作品とともに体験する空間そのものが、彼女の創作のあり方を示しています。
沈黙と空間、そして創作の流れ
ババヤンの制作空間には、静かな緊張が漂っています。アトリエにあるのは光と静けさ、そして一枚の書画紙だけ。余計なものは置かれていません。この簡素な環境の中で、感情はそのまま画面へ向かいます。制作に入ると、彼女は外の世界から意識を切り離し、深い集中へと入っていきます。周囲の音もやがて筆のリズムに溶け込み、制作の流れの一部になります。絵を描く時間は、静けさと向き合うひとときです。時間の感覚はゆるやかになり、意識は目の前の画面へと静かに集まっていきます。
制作に取りかかる前には、いつも決まった習慣があります。ババヤンはアルメニアの神秘思想家で詩人のナレカツィの言葉を読み、心を整えます。その詩は気持ちを落ち着かせ、制作へ向かう静かな空気を生み出します。そのあと彼女はヨハン・セバスティアン・バッハの音楽を流します。均整の取れた旋律は穏やかなリズムとなり、制作の時間を支えます。やがて筆の動きは呼吸や思考と重なり、意識は筆の運びそのものへと向かいます。深い集中のなかでは、描くという行為だけが静かに続いていきます。
ババヤンの創作は、音楽や文学とも深く結びついています。彼女の出発点は音楽にあり、音楽学校を優秀な成績で卒業しました。その後も詩や言語学への関心を持ち続けています。こうした関心は、やがて彼女の創作の中で一つに結びつきました。展覧会では詩や音楽が作品とともに紹介されることも多く、鑑賞者は視覚だけでなく複数の感覚を通して作品を体験します。彼女が長く思い描いているのは、絵画と詩、そして音楽を組み合わせた作品集です。ババヤンにとって、音楽と詩、絵画は互いに響き合う一つの表現なのです。
アヌシュ・ババヤン: 光がつなぐもの
視覚芸術家としての出発は決して早いものではありませんでした。しかしババヤンの視野は、常に未来へと開かれています。2024年、彼女は「Silent Dialogues」というプロジェクトを立ち上げました。視覚芸術と精神的な体験のあいだにある、言葉では言い表しにくい関係に目を向ける取り組みです。現在はその流れを発展させ、「Art Without Borders」という活動にも取り組んでいます。創造という共通の言語を通して、文化の隔たりを越えて人々を結びつけようという試みです。さらに彼女は、「Guardians of Light」という国際的な共同プロジェクトを構想しています。そこでは、美しさや精神性、そして感情の真実を大切にする女性アーティストたちが世界各地から集い、それぞれの表現を持ち寄ることが想定されています。
この構想で彼女が目指しているのは、単なる共同制作ではありません。芸術を通して、人が自分自身と向き合う時間を生み出すことです。観る者の感覚に静かに働きかける作品を通して、内面に目を向けるきっかけをつくりたいと彼女は考えています。展覧会、出版、映像や音を取り入れた作品、そして国境を越えたイベント。さまざまな形で人々が集まり、芸術を通して共感が生まれる場を広げていくことが、このプロジェクトの目的です。その背景には、芸術には人を自分自身へと引き戻し、同時により大きな世界とのつながりを感じさせる力があるという考えがあります。彼女の構想は、美しさを表現することだけにとどまりません。芸術を通して、人の意識に静かな気づきをもたらすことにも向けられています。
ババヤンは、日本にも特別な関心を抱いています。精神文化の奥行きや、洗練された美意識に深い共感を覚えているといいます。いつか日本を訪れ、その静けさの中で光を感じてみたいとも語っています。それは、彼女がこれまで絵の中で追い続けてきた光でもあります。国や文化の違いを越えて彼女が分かち合いたいものは、とてもシンプルです。愛、美しさ、そして感謝。アヌシュ・ババヤンはこれからも、その静かな光を作品の中に描き続けていくでしょう。




