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「想像と現実、夢と実在。その狭間にある緊張感を描き出そうとしています。」

記憶と油彩に刻まれた静かな軌跡

スウェーデン出身の画家、ティーナ・ヘルブロム=ティブリン――アーティスト名「TinaH」として知られる彼女は、静けさとともに、観る者の記憶に響くような奥行きを感じさせる油彩画で、現代美術の中に独自の存在感を放ってきました。リネンのキャンバスに描かれるその作品は、古典技法と夢のような曖昧さが溶け合い、観る人の感情にそっと語りかけます。美術理論と教育学の博士号を持つ彼女の表現には、知性と詩情が絶妙に同居しています。イタリアやフランスを旅した際に出会った古代の壁画は、時を超えて心に残る力を彼女に教え、創作の礎となりました。

ヨーロッパをはじめ、アメリカ、ドバイ、北京と世界各地で展覧会を重ね、国際的な評価も高まり続けています。これまでにボッティチェリ賞、レオナルド・ダ・ヴィンチ賞、ベラスケス賞、ゴヤ賞など、名誉ある賞を次々と受賞。近年もミラノで再びレオナルド・ダ・ヴィンチ国際賞を受け、同時期にはローマの美術館での展覧会にも出品されました。国内外のアート誌でもたびたび紹介され、めまぐるしく変化する現代アートの世界で、静けさをたたえながら、ひときわ異なる存在感を放っています。

輝かしい評価を受けるずっと前から、彼女は絵を描くことに心を傾けてきました。12歳のとき、両親から贈られた絵具箱をきっかけに、内なる世界を形にしたいという衝動に駆られます。最初に選んだ油絵の具は、彼女の感受性と静かな情熱に寄り添う素材でした。高校時代には、美術教師のひとことが才能を引き出す大きな力となり、それがスウェーデンの地域文化奨学金の受賞へとつながります。記憶とアイデンティティ、そして想像力が静かに交差する場所を描き出すことが、TinaHの創作の核となっているのです。

TinaH:塵と光の余響

TinaHの作品は、幻想的なシュルレアリスムと象徴的な写実表現のあいだをたゆたうように展開されています。彼女の画風には、一目でそれとわかる静かな個性があります。くすんだ色合いや淡くにじむような階調、夢を思わせる構成が、存在と不在の境界を静かに行き来しています。灰色や白亜、褪せた黄土色を基調にした色使いが、時が止まったかのような空気を画面に漂わせています。筆致はきわめて繊細で、画面を支配することなく、まるで霧のなかから記憶がふと浮かび上がるように形をにじませていきます。絵は何かを語りかけるというより、静かに呼びかけてくるような佇まいを持ち、観る人の内側にそっと入り込んでいきます。

作品には、アーチや窓、回廊といった建築的なモチーフが繰り返し登場します。これらは建築構造というよりも、むしろ心の奥へとつながる入口のように描かれています。ルネサンス美術を思わせる古典的なかたちでありながら、TinaHの手にかかると、その輪郭はやわらかく溶けていきます。そこにあるのは壮麗さではなく、静かに内面へと誘う空間です。現実と想像、外の世界と心の深部。そのあいだを行き来するための視覚的な通路として、彼女の作品に息づいています。ジョルジョ・デ・キリコの描いた形而上的な都市にたとえられることもありますが、TinaHの空間には、より静かな感情と、彼女ならではのやわらかな美しさが漂っています。

人物像、とくに女性像は、彼女の作品において中心的でありながらも、どこかつかみどころのない存在です。顔が描かれていなかったり、姿の一部が隠れていたりすることで、特定の誰かを描いているのではないという意図が伝わってきます。そこには、アイデンティティや心のありようを、固定されたものではなく、移ろいやすいものとして見つめる視点が感じられます。彼女の描く人物たちは、生と夢のはざまにたたずみ、喜びや悲しみではない、どこか祈りにも似た静けさをまとっています。その匿名性によって、観る人は自身の感情や記憶を重ね合わせながら、作品との間にささやかな共鳴を見いだすことができます。また、作品のなかには、人形の頭部や古典彫刻の胸像、一個の林檎といった象徴的なモチーフがときおり登場します。これらはあえて明確な意味を与えられず、不穏さをわずかにまといながら、物語に奥行きを加えています。曖昧なままに存在するそれらのかたちは、鑑賞者の感情を支える静かな重みとなり、記憶の中にそっと残っていくのです。

夢と記録のあわいで:物質を超えたまなざし

TinaHの作品は、想像と現実のあいだにある、明確に言葉にはできない領域をそっと描いています。現実のかたちが少しずつ崩れ、夢のやわらかさに包まれていくような感覚。TinaHの作品は、まさにその瞬間をとらえています。自発的なひらめきや、まだ定まらない自己の姿、そして明快さと曖昧さの間にある静けさと緊張感。そうしたテーマが、彼女の作品にはたびたび顔をのぞかせます。TinaHの絵は、ひと目見ただけで答えがわかるようなものではありません。むしろ、時間をかけて向き合うことで、観る人の中に何かがゆっくりと立ち上がってくる、そんな静かな対話の時間を大切にしています。

このあいまいさには、彼女自身の姿勢が深く関わっています。TinaHは、制作を言葉ではなく感覚に導かれるひとつの瞑想のようなものととらえており、考えをめぐらすよりも、心の奥から自然に湧き上がるものに耳をすませながら描いています。その姿勢は、アトリエでの制作過程にもよくあらわれています。彼女は長年にわたり独自の油彩技法を模索し、絵具がゆっくりと乾く特性を活かして、色や形を何層にも重ねていきます。その積み重ねが、絵の深みや余韻を支えているのです。描いているあいだは意識が研ぎ澄まされ、ひとつの流れに没入するような集中の状態に入ります。たとえ日常の中で制作が中断されることがあっても、彼女はすぐにその心の流れへと戻ることができ、迷いなく筆を動かしていきます。

油彩は彼女の主な表現手段ですが、これまでにリノリウム版画やバティックといった技法にも取り組んできました。それでもなお、最終的に立ち戻るのはいつも油絵具です。その理由は、その豊かさと繊細さにあります。アクリル絵具では、彼女が描こうとする独特の空気感や光の揺らぎを表すには、柔軟さや深みが足りなかったといいます。油絵具のもつ重みとしなやかさは、彼女の静かなまなざしを、丁寧に、そして誠実にかたちにするために欠かせないのです。この技法へのこだわりは、新しい表現を拒むものではありません。むしろ、自分が描きたい感情のひだに、誠実に向き合おうとする選択なのです。そこには、ゆっくりと時間をかけて沈み込み、深く染み入り、観る人のなかにそっと残っていくような、そんな表現へのまなざしが宿っています。

TinaH:象徴のなかに息づく静かな力

TinaHの表現は、心に残る出会いや影響を受けながら、時間をかけて静かに育まれてきました。そのなかでも、オディロン・ルドンの象徴主義に出会ったことは、彼女にとってひとつの転機となります。色と形によって内面の世界を可視化するというルドンの絵画は、TinaHに深い示唆を与えました。曖昧さと直感を頼りに構成を組み立てていくという彼女の姿勢も、まさにルドンの夢のような手法と共鳴しています。はっきりと語らず、何かを静かに示す詩のような論理は、TinaHの作品全体に一貫して流れており、意味は言葉になる前の状態で、静かに画面にたたずんでいます。

彼女が強く影響を受けたもうひとりの存在が、レオナルド・ダ・ヴィンチです。人間の心を見つめる姿勢、個の存在を描き出そうとする探究心、そして細部に宿る観察の鋭さ。そのすべてが、彼女の表現の根底に息づいています。ただし、TinaHはこうしたルネサンス的な理想を、現代的な感覚で受けとめ直しています。華やかさを取り去り、より静かで、心にそっと寄り添うようなかたちに置き換えているのです。作品に見られるルネサンスの影響は、見かけの模倣ではなく、ひとつの思想として受け継がれています。描かれる人物も空間も、すべてが自分自身を見つめ直すための器となり、内面へと向かう静かな問いかけとして存在しています。こうした古典との静かな対話が、作品に深みと思想的な厚みをもたらしているのです。

世界各地での展覧会や数々の受賞を通じて、TinaHの作品は国際的にも高い評価を受けてきましたが、その根底にあるのはつねに自身の内なるビジョンです。流行に迎合したり、見た目にわかりやすいイメージを描いたりすることはありません。彼女の絵は、ひとつの瞑想のように静かに立ち上がり、観る者の心にそっと語りかけてきます。欧州の美術館や国際賞での評価は、その技術的な完成度だけでなく、作品が持つ深い感情の余韻を物語っています。即時性と刺激に満ちた視覚文化があふれる今、TinaHが差し出しているのは、むしろその逆にある「静けさ」です。彼女の絵は、立ち止まり、内側に耳を澄ますことの大切さを、そっと思い出させてくれます。