「シーピン・H・ルーベンの絵画を生み出す原動力は、色と形がせめぎ合う、その緊張感にあります。」

顕微鏡からキャンバスへ:表現の出発点

シーピン・H・ルーベン(Xiping H Rouben)の表現の原点は、意外にもアトリエではなく研究室にあります。科学研究に携わり、顕微鏡で標本を観察するなかで、細胞の世界に現れる複雑な構造や輝くような色、有機的な形に強く惹かれていきました。肉眼では見ることのできないその光景は長く彼女の記憶に残り、やがて作品へとつながる関心の芽となります。科学の世界で身につけた分析的な視点と、抽象絵画の自由な表現。その二つは、のちにルーベンの制作のなかで結びついていきました。顕微鏡を通して観察していたものをそのまま写すのではなく、自分の感覚で捉え直し、絵具や質感、筆の動きによって表そうとするようになったのです。

ただ、そこから画家として歩み始めるまでには時間がかかりました。美術を専門的に学んだ経験がなかったため、プロのアーティストになることは、当初のルーベンにとって現実的な選択とは思えませんでした。その考えを大きく変えたのが、指導者たちとの出会いです。中国系カナダ人のイコン画家ジェンズ・シーフーからは、中国書道が持つ厳しさと、そのなかに生まれる豊かな表現を学びました。また、カナダの抽象画家スザンヌ・メッツのワークショップに参加したことで、抽象表現に対する見方も大きく変わります。構図をあらかじめ固めるのではなく、より直感を信じ、自由に画面をつくることを知ったのです。二人から得たものは、守るべき型ではありませんでした。むしろ新しい方向へ踏み出すきっかけとなり、その経験を通して、ルーベンは自分だけの表現を築いていきました。

こうした歩みを経て、ルーベンの作品は次第に注目されるようになります。Artistcloseupなどの媒体で取り上げられ、ニューヨークで初めての個展を開いたことも、大きな節目となりました。制作では今も直感や偶然を大切にしており、描き終えてから初めて、その作品が何を意味しているのかに気づくこともあります。彼女にとってアトリエは、作品を仕上げる場所であると同時に、実験を重ねながら新しい表現を見つけていく場所でもあります。ニューヨークのArtifact Galleryで作品を発表した際には、色と形のあいだに生まれる緊張感や、スペクトルを思わせる鮮烈な色彩を意識的に用いる点が評価されました。直感に任せる自由さと、画面を見極めながら整えていく意識。その二つのバランスが、現在も変化を続けるルーベンの作品を形づくっています。

シーピン・H・ルーベン:筆致と構造のあいだ

ルーベンの作品には、有機的に形が生まれていく感覚と、身体的な動きを感じさせる抽象表現が共存しています。画面はあらかじめ組み立てられたというより、描くなかで少しずつ姿を現していくように見えます。抽象表現主義を思わせる要素もありますが、強い自己表現を前面に押し出すのではなく、何かが生まれ、変化していく様子を見つめるような筆致が特徴です。そこには、科学研究に携わってきた経験もさりげなく反映されています。画面に現れる形は、ときに細胞の集まりや神経のつながり、顕微鏡で見る微小な生物を思わせます。ただし、それらをそのまま描いているわけではありません。生物の仕組みから受け取った印象が、リズムを持つ形へと置き換えられているのです。

作品のなかでは、性質の異なる二つの力がせめぎ合いながら、ひとつの画面をつくっています。直感のままに伸びていく線や自由な筆の動きがある一方、その奥には全体を支える秩序も感じられます。渦を巻くような形が見えない中心の周りを巡り、血液の循環や生態系のつながりなど、自然界にある仕組みを思わせることもあります。自由な動きのなかに構造があり、秩序のなかにも偶然が入り込む。その重なりが、画面に一見しただけでは捉えきれない複雑さをもたらしています。見る人の意識も、表面に現れた形だけでなく、それらがどのように生まれ、互いに関わっているのかへと自然に向かっていきます。

素材の扱いも、ルーベンの表現を大きく左右します。東アジアの書を思わせるしなやかな線が、絵具を幾重にも重ね、ときに削りながらつくられた複雑な表面を横切ります。色彩も画面を彩るだけのものではありません。鮮烈な色同士がぶつかることで緊張と動きが生まれ、ある形を浮かび上がらせながら、周囲の均衡を揺さぶります。滴る絵具や重力によって残された跡には偶然が入り込みますが、それも全体の流れのなかに違和感なく溶け込んでいます。こうして生まれる画面には、ひとつの形に落ち着くことなく、今もなお変化の途中にあるような感覚が漂っています。

受け継がれた記憶と、広がる感覚

ルーベンの感性には、自身の生い立ちが深く関わっています。なかでも大きな影響を与えたのが、精緻な刺繍を得意とする民芸作家だった母親です。簡単な下絵から、細やかな模様が少しずつ形になっていく様子を幼い頃から目にしてきた経験は、彼女の記憶に強く残りました。そこから、手仕事の美しさや、目に見える形によって物語を伝えることへの関心が育っていきます。身近な素材が、人の手を通して意味や表情を持つものへと変わっていくことも、こうした経験から学びました。幼い頃から親しんだ花や動物の形は、自然界に見られる造形への感覚を育て、現在の抽象作品にも形を変えて受け継がれています。

そうした環境に親しんで育った一方、1970年代後半の中国では、社会の期待もあり、ルーベンは科学の道へ進みました。当時の多くの同世代と同じように厳しい受験を経て優秀な成績を収め、国内有数の医科大学に進学して薬学を学びます。その後は病院薬剤師として働き、さらにトロント大学では研究者として科学の仕事に携わりました。芸術への思いが再び強くなったのは、この時期です。顕微鏡のなかに現れる複雑な像を目にするうちに、形や色への興味が再び呼び起こされました。長年の科学研究で培った視点を持ちながら、彼女はあらためて創作へと向かっていくことになります。

ルーベンの関心は、個人的な記憶だけでなく、さまざまな芸術や感覚へと広がっています。中国書道を学ぶなかでは、とりわけ黄庭堅の表情豊かな草書から影響を受け、その筆の動きが現在の自由な線の基礎となりました。ジャクソン・ポロック、ワシリー・カンディンスキー、ジョアン・ミロといった西洋の芸術家からも刺激を受け、動きや感情、象徴的な形をより自由に試すようになります。さらに、音楽やパフォーマンス、旅、料理など、絵画以外の経験も制作に取り込まれています。トロントの音響システム企業ST. MARLYN Technology Inc.との共同制作もそのひとつです。視覚と音を組み合わせることで、見るだけにとどまらず、複数の感覚を通して作品を体験できる表現を探っています。

シーピン・H・ルーベン:実験から生まれる絵画、続いていく発見

ルーベンは、一枚のキャンバスを、答えの決まっていない探究の場として捉えています。その姿勢は、未知の結果を確かめながら進める科学実験にも通じます。完成形をあらかじめ定めるのではなく、色や質感、筆の動きが画面のなかでどのように作用するかを見ながら、その都度次の展開を選んでいきます。そうした過程から、思いがけない形が現れたり、それまで意識していなかった要素同士の関係が生まれたりすることもあります。アトリエでは常に試行錯誤が続き、一つひとつの判断が次の変化を呼び、作品全体の流れを少しずつ形づくっていきます。すぐに明確な答えを示すのではなく、時間をかけて見ることで、新たな解釈が生まれてくる作品を目指しています。

抽象的な画面のなかに、人物や何らかの構造を思わせる形が一瞬だけ現れることも、ルーベンの作品に心理的な奥行きをもたらしています。顔のように見えたものが動きのなかへ溶けていったり、骨格を思わせる輪郭が姿を見せたかと思うと、再び抽象のなかへ消えていったりします。何かを認識できそうでありながら、最後まで明確な像にはならない。その感覚によって、見る人は自分が何を見ているのかを確かめながら、同時に一つの意味には収まらない画面と向き合うことになります。ルーベンにとって、意味を一つに限定しないことは重要です。それぞれの見る人が、自分自身の感覚や経験を通して作品を受け取れることを大切にしています。

これからもルーベンは、素材や技法を試し、異なる分野との共同制作にも取り組みながら、新たな表現の可能性を探り続けます。その背景にあるのは、これまで積み重ねてきた経験と、まだ知らないものへの好奇心です。未知の領域にもためらわず踏み込みながら、その都度得られる発見を次の制作へとつなげています。一枚一枚の作品には彼女自身が歩んできた過程が刻まれ、同時に、見る人にもそこに重なるさまざまな意味をたどることを促します。こうした制作を重ねるなかで、ルーベンは科学と芸術の関係を新たな視点から捉え直し、思考を促しながら、視覚的にも強く印象に残る作品を生み出しています。