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「緑内障で片眼を失いました。でも、その代わりにレンズを手に入れたことで、まったく違う見方ができるようになったのです。」

好奇心からはじまったまなざし

ピエトロ・サッキーニ(Pietro Sacchini)は、時間と経験を重ねながら、、自身の表現をかたちづくってきた写真家です。1966年にローマで生まれた彼にとって、幼い頃の記憶は常にカメラとともにあります。それは単なる道具ではなく、日々の暮らしに寄り添う存在でした。家族の集まりや友人との時間、何気ない日常の一場面が、そのまま世界を見つめる入口となっていきます。そうした関心を育てたのは父親でした。コダック・インスタマチックやポラロイドに触れる中で、過ぎ去る瞬間がかたちとして残る感覚を自然と身につけていきます。これらの体験がすぐに芸術へと結びついたわけではありませんが、のちに表現として立ち上がる感覚の土台となりました。同時に彼は通信分野を学び、1984年に卒業します。情報のつながりや伝達への理解は、その後の思考の奥行きにも静かに影響を与えています。

写真の道は、時間をかけて少しずつ選び取っていったものでした。ローマのオフィチーネ・フォトグラフィケやサバティーニ・スクール、さらにはテーマごとのワークショップを通じて技術を身につけていきます。そこにあったのは、型にはめる指導ではなく、それぞれの解釈を尊重する環境でした。その中で彼は、自分のペースで表現を深めていきます。アートの世界への関わりもまた、急ぐことなく、考えを重ねながらゆっくりと進んでいきました。写真はやがて、言葉に頼らずに内面を伝えるための手段となります。作品は説明するものではなく、見る者に問いを投げかけるものへと変わっていきました。かつて遊びの延長にあったカメラは、内と外をつなぐ思考の道具へと変わっていきます。

サッキーニの制作を語るうえで欠かせないのが、「見る」という行為そのものへの意識です。彼はしばしば、緑内障で片眼を失い、その代わりにレンズを得たと語ります。ユーモアを交えたこの言葉には、失ったことと、そこから得たものの実感がにじんでいます。視覚は決して均一なものではなく、制約や適応、そして意志によってかたちづくられるものです。その認識は作品にも表れており、技巧を見せるのではなく、感情の響きをすくい上げる構成が際立ちます。彼にとっての美しさは、表面的なものではありません。内側から立ち上がり、人と人のあいだに働きかけるものとして捉えられています。ドストエフスキーが「白痴」の中で問いかけた「美は世界を救うのか」という言葉に呼応するように、サッキーニは写真を通してその可能性を探り続けています。一枚一枚の写真には、見ることへの静かな信頼が込められています。

ピエトロ・サッキーニ:人物と風景をつなぐもの

サッキーニの作品は、ポートレートと風景という二つの軸から成り立っています。ただし彼にとって、それらは別々のジャンルではありません。どちらも人間の内面に触れるための表現として扱われています。顔と土地は同じ視点で捉えられ、外見を超えた美しさが浮かび上がります。風景は単なる背景ではなく、人もまた切り離された存在ではありません。人物には場所や記憶の気配がにじみ、風景には人の営みの痕跡が感じられます。誇張に頼ることなく、距離の近い視点で世界に向き合う――その姿勢が、作品に静かな強度をもたらしています。写真は、見過ごされがちな細部や沈黙に目を向けるよう、見る者にゆっくりと働きかけてきます。

技術に対する考え方も柔軟です。モーションブラーのような表現からスタジオライティング、自然光まで、作品ごとに最適な方法を選び取ります。特定のスタイルに固執することはありません。彼にとって技術は個性を示すものではなく、表現を成立させるための手段です。重要なのは、どのように撮られたかではなく、そこに何が写し出されているかです。その姿勢は、美しさと倫理を切り離さずに捉える考えとも重なります。写真は、誠実に意味を伝え、見る者の感情に触れたときにはじめて力を持ちます。

彼の制作の中心にあるのは、見る者の好奇心を呼び起こすことです。イメージをただ受け取るのではなく、立ち止まり、考え、そこに込められた意味に目を向けることを促します。ここでいう美しさは、共感や気づきへとつながる入口でもあります。その姿勢は、一般の人々を被写体に選ぶ点にも表れています。演じることに慣れていないからこそ、不意にこぼれる表情や反応には、その人らしさがそのまま現れます。撮影には時間と根気が必要ですが、その先にあるのは、つくり込まれていない瞬間です。初めての体験の中でふと現れる無垢な表情は、彼の考える誠実なイメージと深く結びついています。写真は単なる記録ではなく、人と向き合うための場でもあるのです。

創造のはじまりとインスピレーション

サッキーニの制作は、いつもインスピレーションから始まります。ただしそれは、思い通りに手に入るものではありません。むしろ、アイデアのほうからやってくる感覚に近いといいます。きっかけは文学や映画、音楽、イメージ、あるいはふと耳にした言葉などさまざまです。その断片は、しばらく内側にとどまり、やがてかたちを帯びはじめます。彼はその状態を「繭」にたとえています。そこから内面的な探求が始まり、感覚と理解の両方を行き来しながら、意味が少しずつ立ち上がっていきます。この過程を経ることで、作品は衝動ではなく、確かな実感に支えられたものになっていきます。

アイデアが具体化していくにつれ、場所や物といった要素にも意識が向けられます。空間や小道具は慎重に選ばれ、作品の骨格を支える役割を果たします。それらは装飾ではなく、静かに意味を補強する存在です。被写体と空間、そしてテーマが丁寧に結びつくことで、作品には一貫した手応えが生まれます。その中でも常に中心にあるのは人の存在です。たとえ抽象的なテーマであっても、感情に触れる入口は必ず開かれています。専門知識がなくても入り込める余白があるからこそ、彼の作品は多くの人に届きます。

音楽や色彩もまた、彼の表現を支える重要な要素です。サッキーニは自身の作品全体を、ジェネシスのアルバム「Selling England by the Pound」のように、ひとつの作品世界として捉えています。色には象徴的な意味があり、青は自由や対話、開かれた感覚を、赤は情熱やエネルギー、創造の強さを表します。また、ガリレオ・ガリレイの「情熱は才能の源である」という言葉も、彼の制作の核にあります。こうした考え方が、表現の根底を支えています。感情と知性が重なり合うことで、彼の作品は個人的な体験にとどまらず、多くの人に響くものとなっています。

ピエトロ・サッキーニ:身体、土地、そして変化

サッキーニの代表的なプロジェクトのひとつが、2018年に始まった《Red Passion》です。ダンスの持つ表現力に焦点を当て、身体の動きと写真の関係を探っています。踊るという行為には、喜びや苦しみ、鍛錬や愛といったさまざまな感情が含まれています。それはそのまま、創作に向き合う姿勢の比喩でもあります。彼の写真は動きを止めるのではなく、そこに流れるリズムや感情をすくい取ります。ダンスという表現に向き合いながら、そのエネルギーを写真として引き受ける試みでもあります。《Red Passion》は、身体を通して感情を可視化するプロジェクトといえるでしょう。

また、2023年から2024年にかけて息子とともに制作された《Incorporatus》も重要な作品です。このプロジェクトでは、人と土地の関係が主題となっています。着想の源となったのは、プーリア州マンドゥーリアの海岸沿いで過ごした夏の日々でした。「マルケーゼ」と呼ばれるその地域は、岩場と地中海の植生、そしてわずかな建物だけが点在する風景です。サッキーニはここを、人と自然が対立することなく共に存在する場として捉えています。同じ場所に通い続ける中で、人も土地も少しずつ変化していく様子が見えてきます。その積み重ねが、場所との関係の中で形づくられる自己のあり方を浮かび上がらせます。

さらに彼の関心は、「変化」というテーマへと広がっています。オウィディウスの「変身物語」に着想を得た現在進行中のプロジェクトでは、古くから語り継がれてきた物語を、現代の感覚で捉え直そうとしています。変わり続けることと、そこに流れる連続性。その普遍的なテーマが、作品の核となっています。同時に、テクノロジーの発展によって進む人間と自然の断絶への問いも浮かび上がります。建物が増え、デバイスが入り込み、私たちの知覚は変わり続けています。その中で彼は、再びつながり直す感覚を提示しようとしています。自身が風景の一部として取り込まれていく感覚。それは単なる場所への帰属ではなく、考え方そのものに関わるものです。人と環境は切り離せるものではなく、互いに影響し合いながら存在しているのです。