「自由に創作し、思いがけない道を探っていきたいのです。」
アニック・レトゥルノー
Imprints
フレームの向こうへ: 伝統から創造の自由へ
アニック・レトゥルノー(Annick Létourneau)、芸術とは異なる分野から制作の道へ進んできた作家です。モントリオールに生まれ育ち、家族の歩みに導かれるように法律の道へ進み、弁護士として約十年を過ごしました。その後はコミュニケーションの仕事に携わるようになりますが、描くことだけは変わらず生活のなかにあり続けました。日々の仕事のかたわらで描き続けるなかで、その関心は次第に表現そのものへと向かっていきました。十四年前、制作に本格的に向き合う決意を固めた彼女は、当初取り組んでいた具象的なグラファイト作品から少しずつ距離を取り、より自由な形を探るようになります。抽象へ向かう動きは単なる方向転換ではなく、自身の制作の感覚を見つめ直しながら新たな可能性へ踏み出していく過程でもありました。
彼女の表現を特徴づけているのは主題だけではありません。主に用いるソフトパステルの扱い方にも、はっきりとした独自性が見られます。パステルは一般に再現的な描写と結びつけて語られることの多い素材ですが、レトゥルノーはそこから一歩離れ、抽象的な構成へと向かいます。こうした試みはパステル作家のあいだでも決して多くはありません。実際、ケベック・シティで最近開かれた展覧会では、約120名の作家が250点ほどの作品を発表しましたが、抽象作品はわずか三点にとどまり、そのうち二点が彼女による大作でした。色の重なりや質感の違いを丁寧に引き出すことで、パステルという素材に対する見方そのものが少しずつ広がっていきます。制作は、方向を探るようなスケッチから始まることが多いといいます。あらかじめ選んだ色を軸に構成を組み立てながらも、途中で思いがけない色が加わることもあります。そうして生まれる画面には、形と質感が関係を結びながら配置され、見る者に解釈の余地が開かれていきます。
作品の印象を決めているのは、技巧の確かさだけではありません。形やコントラストの組み合わせによって生まれる微妙な感情の揺れが、画面全体の雰囲気を形づくっています。そこには、それぞれ異なる存在感をもつ形が点在し、調和しながら、ときに緊張をはらんだ関係が生まれます。その関係性は、人と人との距離を思わせることもあります。特定の物語が語られるわけではありませんが、見る人それぞれのなかで意味や解釈が静かに形づくられていきます。素材の可能性にも鑑賞者の受け取り方にも余白を残す姿勢が、彼女の制作の軸となっています。作品は結論を示すものではなく、見る者とのあいだにゆるやかな対話を生み出していきます。
Two
Full Speed
アニック・レトゥルノー:光と沈黙を描く
レトゥルノーの作品には、身近な風景の記憶が静かに息づいています。とりわけ自然光は、彼女の制作を考えるうえで欠かせない要素のひとつです。ローマの路地に差し込む影の重なりや、ケベックの秋に見られる色彩の鮮やかな移ろい。光によって色や形の印象が変わる瞬間に、彼女は強く心を引かれてきました。そうした感覚は作品のなかにも表れています。わずかな濃淡を重ねることで、同じ色であっても時間によって異なる表情が生まれます。静かな画面のなかに、奥行きや揺らぎが感じられるようになるのです。
この感覚は画面構成にもつながっています。形や色、線の流れを一つずつ置いていく過程は、空間を整えていくときの感覚にもどこか似ています。彼女はこの制作の流れを「空間の振付」と表現します。画面に現れる形はそれぞれ固有の存在感を保ちながら、互いに関係を結び、緊張や調和を生み出していきます。そのあり方は、人と人との距離や場に漂う空気を思わせることもあります。特定の物語が語られるわけではありませんが、見る者の記憶や感情に触れながら、多様な受け取り方を引き出していきます。
こうした表現は、パステルという素材と長く向き合うなかで育まれてきました。レトゥルノーにとってパステルは単なる画材ではなく、制作のなかで新しい可能性を示してくれる存在でもあります。ざらりとした手触りを残す部分と、丁寧に整えられた滑らかな面。その対比が画面に厚みを与え、触れられそうな存在感を生み出します。制作は試行錯誤を重ねながら進められ、一枚ごとのドローイングは直感と経験が出会う場となります。そこから現れる結果は、ときに作家自身の予想を超える広がりを見せるのです。
Cartography
敬意を求めて :一つの作品がもつ力
数ある作品のなかでも、『Gri-gri』と題された一点は、レトゥルノーにとって特別な意味をもつ存在です。強い象徴性を感じさせるこのドローイングは、彼女の制作の流れのなかでひとつの節目となりました。制作は決して順調なものではなく、試行錯誤を重ねながら進められていきました。その過程では高い集中力と粘り強さが求められたといいます。彼女自身、この作品について「どこか魔法のような感覚があった」と振り返ります。完成後もなお、心に残り続けている特別な一枚となりました。『Gri-gri』は、制作を通して得た確信や直感を象徴する作品でもあります。
また、『Respect』という作品も注目を集めています。この作品は、アーツ・トゥ・ハーツ・プロジェクトによる書籍『100 Emerging Artworks of 2025』への掲載作に選ばれました。制作の途中で浮かび上がってきたシルエットに神聖な印象を覚えたことから、このタイトルが与えられたといいます。『Gri-gri』ほど困難な制作ではなかったものの、『Respect』もまた、変化を受け入れながら制作を進めることで新たな展開が開けることを示した作品となりました。彼女の歩みを語るうえで欠かせない一枚といえるでしょう。
その後も作品はさまざまな機会で紹介されてきました。『Gri-gri』ともう一つの作品『Imprints』は、2025年の新進作家を取り上げた『Studio Book 6』に収録されています。さらに今秋には、『Gri-gri』が国際アーティスト賞の最終候補者を特集する『The Great Book of Art Makers』にも掲載される予定です。これらの出版物はアメリカ各地の書店やオンラインで手に取ることができ、彼女の作品はカナダを越えてより広い観客へと届き始めています。
これらの作品を見ていくと、レトゥルノーの制作の流れがより鮮明に見えてきます。彼女の表現は何かを描き出すというより、形や素材、画面に漂う空気を通して自身の経験をにじませるものです。『Gri-gri』と『Respect』に通じているのは、抽象のなかで変化を受け入れていく姿勢と、一本の線に込められた感情の強さでしょう。
Respect
Gri-gri
アニック・レトゥルノー:即興のなかで形を立ち上げる
レトゥルノーは、日々の制作のなかで一定のリズムを保ちつつ、そのときの感覚に従って描き進めています。モントリオールの光に満ちたスタジオで、二枚のドローイングを同時に進めることも少なくありません。サイズの異なる作品に取り組むことで、集中の向け方や制作に注ぐ力の配分を自然に切り替えています。最大で33×44インチに及ぶ大きな作品には、長い時間をかけて向き合うことになります。そこでは複雑な質感や空間の重なりを試す余地が生まれます。新しい一枚に取りかかる瞬間には期待とためらいが入り混じります。真っ白な紙を前にしたときの不確かさについて、彼女は率直に語っています。制作はラフなスケッチから始まり、そこに現れた形が次の展開の手がかりになっていきます。
やがて色の選択が画面の方向性を決めていきます。あらかじめ思い描いた色の構想を持ちながらも、制作の途中で変化が生まれることを受け止めながら進めています。計画と直感のあいだを行き来するような制作の進め方が、彼女の特徴のひとつです。形や質感の思いがけない組み合わせを試しながら、意味を考えるより先に手が動いていく感覚を大切にしています。パステルの痕跡を重ねたり変化させたりすることで、触れられそうな表情が画面に生まれます。その質感は作品に幅のある印象をもたらし、繊細さや力強さといった多様な感覚を引き出していきます。
そして今、彼女は次の節目へ向けて制作を続けています。2026年には、モントリオールのアートストリートとして知られるグリーン・アベニューにあるギャラリー203で二度目の個展が予定されています。この展覧会はこれまでの探究をさらに深める機会となるでしょう。構成や技法においても、新しい試みに挑んだ作品が発表される見込みです。そうした準備のなかでも、彼女の意識は常に制作へと向かっています。新しいアイデアをスケッチしながら、次につながる手がかりを探り続けているのです。一枚一枚の積み重ねが、彼女を抽象表現へと導き続けています。線や色、質感のなかに生まれる感情に向き合い続けること。それが彼女を描き続けさせている理由なのかもしれません。




