「絵を描くことは、いつも私のそばにありました。色で感情を伝え、形やコントラスト、繰り返しの細かな表現で、自分の思いを綴ってきたのです。」
思考とまなざしが重なる場所
ブルガリア生まれで、現在はスイス・ローザンヌを拠点とするイヴァ・ボグダノヴァ(Iva Bogdanova)は、科学の知見と美術的感性を融合させたユニークな制作を行っています。通信工学や応用数学を学び、電気工学で博士号を取得した彼女は、そうした理系の背景を土台にしながら、抽象表現の中に独自の秩序と奥行きを築いてきました。繰り返しのパターンや構造的な画面構成には、システムやネットワークを想起させる明確なロジックが息づいています。ただし、彼女の目が向いているのは、論理の世界だけではありません。感情の揺らぎ、自然界に漂うエネルギー、空気の震えのように目には見えないものを、色彩と形でそっとすくい取ろうとしています。緻密な構成のなかに、自由で即興的な筆致が重なり合い、静けさと躍動が共存する空間が立ち上がります。
絵を描くことは、彼女にとって子どもの頃から日常の一部でした。動物や人の顔を夢中でスケッチしていた経験が、やがて「観ること」と「感じること」の結びつきを深め、現在の創作へとつながっていきました。目に映る風景と、そこから感じ取る目に見えない気配。それらの関係を探ることが、彼女の表現の核になっています。抽象表現にわずかに具象を忍ばせる作風には、生きることの複雑さと豊かさを見つめる、静かなまなざしが宿っています。大学で出会った色彩知覚の研究は、彼女の表現を大きく変えました。色と感情の関係を深く理解することで、色彩の組み合わせに対する感覚が研ぎ澄まされ、鮮やかな対比や繊細な調和を自在に使いこなせるようになったのです。その色使いは、画面に強い引力と没入感をもたらしています。
ここ数年は、大型のキャンバスに取り組むことが増えています。100×150センチの画面に、アクリル絵具を手で丁寧に塗り重ねて背景をつくり、その上に記号やイメージを重ねていく制作は、まるで物語を紡ぐような作業です。直感に導かれながらも、何日も集中を途切れさせずに描き続ける時間には、緊張感と静けさが同時に漂います。毎日のドローイングも、彼女にとって欠かせない習慣です。とくに人物を描くことは、空間のバランスや感情の微細な動きを見極めるための、重要な手段となっています。ボグダノヴァにとってアートとは、自己を表すためのものではなく、内にある感覚や記憶を、色や形を通じて他者と共有するための言語です。静かに、そして深く描かれたその一枚一枚には、彼女が観つめてきた世界の響きが宿っています。
イヴァ・ボグダノヴァ:数式から感情へ
イヴァ・ボグダノヴァの作品には、理性的なまなざしと、感情への深い探求が共存しています。点や線、細胞のような形の繰り返しは、どこかアルゴリズムを思わせる秩序を持ちながらも、有機的に変化し、まるで自然の成長をなぞるかのようです。画面に現れる構造は、サンゴ礁や微生物、木の根の広がり、空から見た地図のようにも見えますが、実際の風景を描いているわけではありません。そこに広がっているのは、想像の中に生きるもう一つの生態系であり、目に見えるものと、感じとることの両方に働きかけてきます。作品には始まりも終わりもなく、観る人の視線に応じて、科学の仮説が詩のように揺らぎながら展開していくような、不思議な広がりがあります。
ボグダノヴァにとって、象徴の存在もまた重要な要素です。フクロウやカメ、クラゲ、不死鳥のような鳥など、彼女の作品にたびたび現れる生き物たちは、単なる装飾ではなく、それぞれ「知恵」「変容」「再生」といった意味を秘めています。こうした象徴的な存在が画面に命を吹き込み、神話の断片のような物語性が、複雑な構成の中にそっと織り込まれていきます。細部まで描き込まれた形や線は、しばしば抽象的でありながら、どこか人間の意識を超えた大きな力の気配を感じさせます。それは、意味を読み解くよりも、静かに向き合い、感じ取ることを求める表現です。長く観つめているうちに、作品と心の中で静かな対話が始まるような、そんな余白がそこにはあります。
色彩の扱いも、偶然に任せるのではなく、観る人の感覚を丁寧に導くために選び抜かれています。黄土色のような温もりのある色から、宇宙を思わせる深い紫、鮮やかなピンクや軽やかな黄色まで、彼女は幅広いトーンを自在に行き来します。そのすべてが、画面の奥行きや空気感を際立たせ、陸地の風景や水中の世界など、さまざまな感覚を呼び起こします。また、円形やグリッドのような構成を好んで用いることで、自由な筆致と構造的な安定感との間に、心地よい緊張感を生み出しています。作品は、視覚の中で繰り返し響く「まなざしのリズム」のようになり、観る人を静かな没入の時間へと誘います。個人の記憶や感覚、自然への観察眼、そして数理的な思考を絶妙に組み合わせる彼女の表現は、科学と精神性のあいだに浮かぶ、繊細で奥深い世界を描き出しています。
有機的な対称性と創作の儀式
ボグダノヴァの制作には、厳密な構成力とともに、柔らかな即興性が息づいています。アクリル絵具を好んで使うのは、乾きが早く、何層にも重ねて描く彼女の手法に適しているからです。キャンバスに直接手を触れ、背景の質感を指先で形づくっていくその姿は、どこか儀式のようでもあります。こうして生まれた面が、やがて筆やアクリルマーカーによって描かれる線や形の舞台となり、画面に命が宿ります。手の感覚を頼りに描かれる物理的な存在感と、知的な構想が重なり合い、作品には深い層が生まれていきます。ときには異素材を取り入れることで、物語の奥行きや画面の豊かさがさらに増していきます。
彼女にとって日々のスケッチは、創作に欠かせない柱のひとつです。なかでも人物を描くことは、空間と感情の関係を見つめ直す大切な手段となっています。顔の表情がどのように内面を映すのか、線や陰影が心の奥行きをどこまで伝えられるのか。そうした観察と試行の積み重ねが、大きな作品にも技術と感情の両面で反映されています。仕事場にはいつもスケッチブックがあり、新しい発想や表現の可能性を試す場として、日々開かれています。その習慣の中で、彼女はわずかな時間でも心を静め、線と形に集中する穏やかなひとときを見出しているのです。
近作のなかで、彼女の現在の創作観をもっとも色濃く映し出しているのが、『WATER REALMS』(2025年)という作品です。100×150センチのキャンバスにアクリルで描かれたこの一作は、そのスケールや完成度に加えて、テーマにおいても特別な意味を持っています。海という存在は、層をなす生態系と神秘的なイメージをあわせ持ち、ボグダノヴァにとってインスピレーションの源であり、豊かな象徴でもあります。画面に浮かび上がる生き物たちは写実ではなく、意味を背負ったかたちとして現れます。なかでも「水」は、感情や記憶、そして変化を運ぶ存在として、彼女の思考と深く結びついています。『WATER REALMS』は、自然を観つめるまなざしと、内なる世界が溶け合うような体験を描き出した作品です。観る者の感覚と想像力を静かに揺さぶる一枚として、彼女の創作の本質を鮮やかに語っています。
イヴァ・ボグダノヴァ:変容と対話のアート
イヴァ・ボグダノヴァの制作の根底にあるのは、色や形、動きといった視覚的な要素を通じて、言葉では届かない感情や思考を人と分かち合おうとする深い願いです。彼女の作品は、繊細に繰り返されるかたちや象徴的なイメージによって構成され、言葉に頼らずに心に語りかけてきます。彼女にとって絵を描くことは、美的な追求だけではありません。記憶や感情、内面の風景を、視覚の「ことば」として紡ぐ行為なのです。ドローイングやペインティングは、話すことと同じくらい自然な表現手段であり、自分の内側にあるものを静かに語るための手段だと捉えています。
工学の学びを通して培った構造的な視点は、彼女の創作に一定の骨格を与えていますが、そこにとどまることはありません。彼女の作品には、しなやかさと自由が息づき、植物のようなかたちや抽象的な地図、想像の生態系といったモチーフが、生命の動きを感じさせながら画面を満たしています。そして観る人は、単なる鑑賞者ではなく、作品の中に入り込んで、ともにその世界を旅する存在として迎え入れられるのです。理性と直感、計画と偶発。緻密な構成と自由な筆致がひとつの画面に共存しているからこそ、観るたびに印象が異なります。そうした相反する要素を自然にひとつにまとめ上げる手腕に、ボグダノヴァならではの表現が表れています。
現在ボグダノヴァは、自身の新作を人々と直接共有する場として、展示空間への展開に力を注いでいます。とくに、大型の作品を通して、絵画の内側にある思索や静かなエネルギーをそのまま空間に広げるようなインスタレーションを構想しています。作品を「見せる」ことは、単に人目に触れさせるためではありません。長い時間をかけてスケッチブックの中や心の奥で育ててきたイメージたちを、現実の場に解き放ち、そこで新たな誰かとの出会いを生むこと、それが彼女にとって、創作の一連の流れを完結させる大切な一歩なのです。色とかたち、そしてリズムがつくり出すささやかな共鳴。その一瞬のつながりこそが、彼女が描き続ける理由なのかもしれません。




