「私にとって創作とは、現実と夢のあわいをたゆたう行為。一枚のキャンバスに向き合うたび、新たな旅が始まるのです。」
移動と探究に導かれて
アリーチェ・ダポリート(Alice d’Apolito)の人生は、移り住む土地ごとに新たな色をまとってきました。南イタリアの小さな町に生まれ、やがて北部リミニへ。異なる風土で育まれた感性は、やがて「自分はどこに属するのか」という静かな問いを生み出し、彼女の表現の核となっていきます。現在はイギリス・リーズを拠点に、旅の中で出会った風景や記憶を絵に結びつけています。異文化や土地との関係性は、作品の背景というより、その土台そのものなのです。
創造性にあふれた家庭に育ち、三人の姉妹はそれぞれ世界の異なる場所で暮らしています。自然と視線は外の世界へと向かい、彼女は映画や写真を学んだのち、パドヴァのコミック・スクールでアニメーションを専攻しました。そこで培ったストーリーテリングや動きの感覚は、現在の絵画にも静かに息づいています。さまざまな表現を探るなかで、自分をもっとも素直に表せる手段として選んだのが絵を描くことでした。イギリスに渡ってから、画家としての道が自然と定まっていきます。
リーズのスタジオは、創作と静かに向き合うための大切な場所です。マブゲイトのホープ・ハウスに構えた空間には、絵の具や筆と並んで、床で描くための畳も置かれています。近年では日本語の学習にも力を注ぎ、2023年には東京・吉祥寺での滞在を経験しました。異国での暮らしが新たな感覚を呼び起こし、彼女の表現にまたひとつ、奥行きが加わりました。
アリーチェ・ダポリート:現実と想像のあいだで
アリーチェ・ダポリートの絵には、記憶と夢のあわいをたゆたうような世界が広がります。アニメーションを学んだ経験は、力強い線やシンプルに描かれた人物、繊細に調整された色づかいに映し出されています。彼女自身の分身や、幼少期にともに過ごしたウサギのフルミネなど、親しい存在がたびたび登場し、作品は記憶や感情と向き合う静かな対話の場となっています。
くっきりとした輪郭線、大きく淡い表情の顔、それとは対照的な鮮やかな色面。そうした特徴的なスタイルは、観る者の記憶にもそっと触れます。作品には、過去への郷愁や、誰かとつながっていた時間への想いが静かに流れており、観る人それぞれの心の風景と重なり合います。
なかでも油彩画『あなたと私(You and Me)』は、彼女にとって特別な一作です。生まれ育った土地を離れた経験から生まれたこの作品は、幼少期の記憶をテーマとしたシリーズの始まりとなりました。心の拠り所を見失いかけたとき、彼女はフルミネとの日々に寄り添い、かすかな記憶の温もりを描き出します。絵を通して過去と再会すること──その行為こそが、彼女にとっての創作の意味そのものなのです。
素材とともに育つ表現
アリーチェ・ダポリートの絵は、扱う素材とともに変化を重ねてきました。初期のドローイングでは、繊細な線と陰影が細かく描き込まれていましたが、やがて筆はしなやかに動き、より明快でのびやかな表現へと移っていきます。写実性よりも「伝わること」を重視する姿勢は、構図にも色にも息づいています。
絵画に本格的に取り組む前には、ドライフラワーや木の葉などを使ったミクストメディアにも挑戦しました。紙の上に自然素材を重ねることで、描くという行為と自然の手触りとを結びつけていたのです。そしてロックダウンを機に、アクリル絵の具を経て油彩へと移行します。かねてより憧れていた油絵の深みと柔軟さが、彼女の世界にふさわしい表現手段となりました。
素材の選び方は、彼女にとって単なる技法の選択ではありません。油彩は、色を重ね、質感をつくりながら、心の奥にある風景を少しずつ浮かび上がらせる大切な手段です。木のパネルや特注のキャンバスに向かうときも、計算と直感のあいだで筆を動かし、一枚一枚に静かな深みを刻んでいます。
アリーチェ・ダポリート:これからのまなざし
アリーチェ・ダポリートは、今も静かに自身の表現を広げています。なかでも注目されるのが、東京で描いたスケッチをもとに進めているプロジェクトです。都市の熱や雑踏、文化の気配をとらえたそのドローイングは、現在、メンターであるアレクサンドラ・マッザンティとともに新たなシリーズへと展開しています。詳細はまだ明かされていませんが、彼女にとって大きな節目となることは間違いないでしょう。
彼女の作品には、エゴン・シーレの情感豊かな人物表現や、佐伯俊男の鋭い視覚言語、さらに歌麿や春信ら浮世絵師の繊細な美意識が静かに影を落としています。ロバート・クラムの、飾り気のない率直な語りの姿勢にも、深く共感を寄せています。表現のかたちは異なれど、いずれも人の内側にある複雑な感情を見つめる姿勢に貫かれています。
新しいシリーズに取り組むたび、彼女は自身の声を確かめるように、表現を少しずつ研ぎ澄ませてきました。幼い記憶をたどるときも、旅の風景を描くときも、未知の技法に挑戦するときも、アリーチェ・ダポリートはいつも「心を描く人」としてそこにいます。彼女のキャンバスには、過去と現在、現実と想像が静かに交差し、語られなかった物語がそっと息づいているのです。