「デルフト焼の花瓶と花々を描いた静物は、ただの飾りではありません。そこには、時を超えて響く美しさと感情の物語が宿っているのです。」
花と陶器が紡ぐ記憶
マリエーケ・トレファース(Marieke Treffers)の写真は、目を引くだけではなく、観る者の心に静かに語りかけてきます。彼女の静物には、オランダ黄金時代の絵画を思わせる静謐さが漂い、同時に今を生きる私たちにも通じる物語が潜んでいます。オランダを拠点とするトレファースは、古典的な美意識を踏まえながら、現代にふさわしい新しい視覚表現を生み出しています。デルフト焼の花瓶をはじめ、身近な器や花々は、彼女の手によって記憶や世代をつなぐ象徴へと姿を変えます。それは単なる花と古い器物の取り合わせではなく、文化や技、そして人々の時間を写し取った「生きた記録」と言えるでしょう。
彼女は球根花の農家に生まれ育ち、自然はいつも身近にありました。それは、自宅の庭で摘み取ったばかりの花を作品に用いる姿にも表れています。幼い頃から絵やデザインに親しんできましたが、長くは広報の仕事に携わり、アーティストとして歩む決心がついたのは44歳の時でした。その後、オランダのイメージ・クリエーション・アカデミーで本格的に写真を学びます。遅い出発ではありますが、その分だけ彼女の視点には成熟した深みがあります。流行に流されるのではなく、長い時間をかけて育んできた表現として、彼女の写真には確かな重みが宿っているのです。
トレファースが目指すのは、古いものに新たな息吹を与えることです。デルフト焼の花瓶は、単なる装飾品ではなく、代々受け継がれてきた記憶の証しでもあります。彼女の作品に登場する花瓶は、家族や時間のつながりを象徴する存在です。そこに慎重に選んだ花々を添えることで、彼女は美と時間、そして遺産をめぐる静かな瞑想のような世界を描き出します。トレファースの静物は、空間を飾るためのものではなく、人生を映し出す記憶の器なのです。
マリエーケ・トレファース:伝統と革新の交わるところ
トレファースの表現は、伝統と新しい解釈という二つの力に導かれています。17世紀オランダ絵画の美学を踏まえ、光と影の扱いや均整のとれた構図といった技法を自在に取り込みます。しかし、彼女の作品は決して過去の模倣にとどまりません。物語を織り込み、感情の気配をにじませ、永遠と儚さの間に漂う緊張感を映し出すことで、現代的な響きを持たせています。彼女にとって花は、刹那の美を象徴するものにとどまらず、文化や歴史、そして自らを見つめ直すための媒介へと姿を変えるのです。
彼女の作風の核にあるのは、古典と現代との響き合いです。伝統的な構図や歴史への参照を踏まえつつ、それらを今の感覚で再解釈することで、作品は一枚の美しい写真であると同時に文化的なメッセージを帯びていきます。鑑賞者は自然と目を凝らし、古いものと新しいもの、物質と象徴との間に交わされる対話を読み取ろうとします。光を用いて生み出す劇的な効果や神秘性、親密さは黄金時代の静物画を思わせますが、そこに漂うのは現代的な感受性に根ざした、より静かで内省的な気配です。
さらに彼女の写真には、視覚を超えて「触れられるような質感」があります。花びらの柔らかさや器の表面のきめ細やかさに至るまで丹念に描き出され、作品に確かな存在感を与えています。その存在は画面の外へと広がり、観る者の記憶に染み込んでいきます。彼女のアートは観る者を立ち止まらせ、遠い時間と今この瞬間とが重なり合うような体験を生み出します。トレファースの一枚一枚は、単なる映像ではなく、個人と社会の記憶が交差する「思索の場」として立ち現れるのです。
光と静けさ、そして創作の習慣
トレファースは、心を落ち着けて集中できるように整えられた空間で制作に取り組みます。静かに音楽が流れ、そばには温かな紅茶。そしてアトリエの静けさが、彼女に思考し、感情を受けとめ、表現する余白を与えます。その雰囲気はそのまま彼女の写真に映し出されています──穏やかで、意図的で、感情に満ちた世界です。
これまでトレファースは、ポートレートや企業写真、マタニティ撮影など幅広いジャンルに取り組んできました。どれも彼女にとって必要な経験でしたが、心の奥から満たされることはありませんでした。静物写真に出会って初めて、自分の芸術的な言葉を余すことなく託せる表現を見つけたのです。構図や象徴、物語性への思いを妥協なく注ぎ込むことができ、正確さと詩情の両方を追求できる──静物という形式は、彼女にとって理想的な舞台でした。そこでは美しさとともに、歴史や個人の記憶をも作品の中に重ねることができるのです。
絵筆を取ることも続けていますが、彼女にとって最も純粋な自己表現は写真にあります。カメラを通して光をかたちにし、感情をすくい取ること──それは絵画では叶えられなかった表現でした。写真は、彼女が見たもの、心に刻まれたもの、そして未来へ残したいと願うものを託す器となり、儚い瞬間を永遠へと留めます。カメラとのこの特別な関わりこそが、トレファースの芸術家としての声をかたちづくり、彼女の作品に唯一無二の明晰さと余韻を与えているのです。
マリエーケ・トレファース:記憶を受け継ぐ物語としての写真
トレファースの作品に通底するテーマは「継承」です。彼女はいま、自身の写真をまとめた一冊の本を構想しています。そこには家族の歴史や大切に守られてきた品々、そして親密な物語が、静物写真を通して紡がれていきます。花や器を題材にした世界は、美の探求にとどまらず、人が自らのルーツやつながりを感じ取る物語として立ち上がるのです。
写真集という形は、彼女にとって自身の歩みをひとつに結ぶ場でもあります。個人的な体験と芸術的な表現が重なり、記憶や伝統、アイデンティティといった普遍的な問いが、より大きな舞台で展開されていくのです。家族の物語や受け継がれた器を取り込むことで、一枚の写真に込められた意味はさらに厚みを増し、鑑賞者はその奥行きを体験することになります。それは写真家としての力量を示す以上に、文化の記憶を紡ぐ「視覚の物語集」となることでしょう。
トレファースにとって写真は、芸術であると同時に、時間をとどめ物語を託す手段です。写真集の実現をめざす試みは、過去に敬意を払いながら現代と向き合うという彼女の姿勢をあらためて示すものでもあります。デルフト焼の花瓶や花々といった身近な題材を通して、彼女は静物を「記憶の肖像」へと変えていきます。その表現は、私たちにただ眺めるだけでなく、思い出し、感じ取り、そして自分自身の大切な記憶と向き合うことを促しているのです。