「自分に正直でいなさい。あなたは花を描くために生まれてきたのではないのだから。」
記憶からはじまった物語
ロディカ・アレクサンドラ・ペトレスク(Rodica Alecsandra Petrescu)が絵を描くようになった背景には、幼いころから親しんできた物語の存在があります。ルーマニアのブカレストで育った彼女は、目に見える風景だけでなく、音から広がる世界にも強く心を動かされてきました。とくに夢中になったのが子ども向けのラジオ番組です。五歳のころ、アンデルセンの『雪の女王』や『マッチ売りの少女』、コッローディの『ピノッキオ』といった物語を、感情豊かな朗読で聴くひとときを楽しみにしていました。言葉の響きや声の表情が、見えない場面を次々と生み出していったのです。こうした時間は、のちの制作にも静かに息づいていきます。幼い日の出来事でとくに印象に残っているのが、父親と観た『リア王』の舞台でした。七歳の彼女にとって、その重厚な上演は忘れがたい体験となります。この出来事をきっかけに、文学や演劇、朗読に触れる機会が自然と増えていきました。物語が呼び起こす感情や、現実の向こう側に広がる感覚への関心は、このころから少しずつ育っていきます。それは後に絵を描くうえでの確かな支えとなっていきました。
ブカレスト美術アカデミーでの経験は、彼女にとって重要な節目でした。古典的な造形教育や思索を重んじる環境のなかで、表現の基礎を身につけていきます。その後アメリカへ渡り、ニューヨークのファッション工科大学でテキスタイル・デザインを学びました。1996年からはニューヨーク州北部に暮らし、二人の子どもを育てながら制作を続けています。新しい土地での生活は、それまで身につけてきた視点を見つめ直す時間にもなりました。受け継いできた感覚を大切にしながら、自分のやり方で描き続けていく姿勢が、このころにはっきりと形になっていきます。その歩みは現在の作品にもつながっています。彼女の絵は、観る者を静かに思索の時間へと導きます。
雲を眺めること、ラジオドラマに耳を傾けること、詩や文学を読むこと。そうした日々の積み重ねは、目に見える出来事を写すよりも、心の奥に広がる風景を描きたいという思いへと変わっていきました。かつては舞台の世界にも惹かれていましたが、やがて絵画に強く引き寄せられます。決め手となったのは、美術アカデミーを訪れ、制作に集中する学生たちの姿を見たときでした。色と形だけで感情の揺れや緊張、そして安らぎまで表していく力が、そこにはありました。自分の内側にある世界をそのまま画面に表せる。彼女はそう感じたのです。その思いをさらに確かなものにしたのが、同級生に勧められて読んだゴッホの書簡集でした。率直な言葉で綴られた苦悩や情熱に触れ、創作の道の厳しさを実感します。同時に、心から生まれた表現こそが長い時間を越えて人の心に残るのだと強く感じるようになりました。
ロディカ・アレクサンドラ・ペトレスク:再現の先にある内なる真実
ペトレスクは、流行に左右されずに制作を続けてきました。制作を始めたころから関心は一貫していて、目に見えるものをそのまま描くよりも、心の内側にある現実をどう画面に表すかを考え続けてきました。人生のつらい時期には、花をテーマにした作品をまとめて描こうとしたこともあります。しかし構想を進めるうちに、それが自分の進む道ではないと気づきました。その思いを決定づけたのが、長年ともに学んできた同僚のひと言でした。五年間の学生生活のなかで、彼女が花に関心を示したことは一度もなかった――そう告げられたことで、自分の感覚を信じてよいのだと感じられたのです。表に現れたものではなく、その奥にあるものを描きなさいという助言は、迷いを静かにほどいていきました。この出来事のあと、彼女は初期を代表する作品を次々と完成させていきます。
『The Unseen Attraction Force of Evil』『The Night of a Troubled Specter』『Transit』『The Blue Lagoon』『Genesis』などは、全17点からなるシリーズとして発表され、初の個展の核となりました。展覧会は作品が順調に売れただけでなく、批評家やコレクター、ジャーナリストからも注目を集めます。この経験を通して、彼女の制作の方向はよりはっきりと定まっていきました。現在、自身の表現についてペトレスクは、形而上絵画とメタリアリズムが重なり合うものだと語っています。人物像の伝統を踏まえながらも、画面には心理的な緊張や象徴的な気配が漂います。感情や記憶、思索といった目に見えないものを、具体的な場面として現そうとする試みが、作品に独自の深みを与えています。
制作はきわめて直感的に進められます。下描きやデジタルツールは使わず、油絵具で直接キャンバスに向かいます。描き進めるなかで主題や色が少しずつ姿を現し、その時々の感情の揺れも作品に反映されていきます。大きな思想的な支えとなっているのが、ルーマニアの哲学者エミール・シオランの言葉です。時間への意識や疑念、死の感覚、生の不安といったテーマは、彼女の制作のなかにたびたび現れます。『Mindscape』『The Labyrinth of Uncertainty』『Home』といった作品では、そうした問いが視覚的なイメージとして展開されています。ペトレスクにとって絵を描くことは、表現を深める行為であると同時に、自分自身と向き合い続ける営みでもあります。感情と思考のあいだを行き来しながら、その対話は今も続いています。
癒やしを宿す絵画
多くの作品のなかでも、『The Keeper of the Living Water』はペトレスクにとって特別な存在です。2006年、深い悲しみのさなかに描かれました。母親を亡くした直後に描き始めたこの絵は、やがて彼女自身を支えるものになっていきます。その後まもなく大きな事故に見舞われ、長い療養生活を送ることになりました。混乱の続く一年でしたが、彼女は何度もこの絵の前に戻ってきます。画面に漂う静けさに、心を落ち着かせられたからです。夢の場面が切り替わるように風景がゆるやかにつながり、観る者は物語の中を進んでいくような感覚を覚えます。中央には水の泉を守る人物が立っています。目には見えない脅威からそれを守ろうとする姿は、内側にある強さを象徴しているかのようです。
この作品が強く印象に残るのは、その穏やかな空気です。安らぎを描こうと意識したわけではありません。ただ回復へ向かおうとする気持ちのなかで、自然に形になっていきました。悲しみに押しつぶされまいとする感覚が、手を動かし続けさせたのだと彼女は語ります。画面にはどこか夢を見ているときのような流れがありますが、そこに置かれた一つひとつの要素は実感のともなうものです。作品の前に立つと、視覚だけでなく空気そのものに触れるような感覚が生まれます。悲しみと安らぎが同じ場所に存在していることに、静かに気づかされます。痛みを抱えた時間が、美しさへと姿を変えていく。この作品はその力をよく伝えています。
実際の経験に根ざした強い感情と、形にとらわれない表現への関心。この両方が重なることで、ペトレスクの絵には深い奥行きが生まれます。油彩を選び続けているのも理由があります。絵具や溶剤に直接触れながら描くことで、質感や透けるような色の重なり、空間の深さまで細やかに扱えるからです。一枚のキャンバスは、自分の内面と向き合いながら試行を重ねていく場になります。彼女の作品は、はっきりした答えを示そうとはしません。観る者はそこにとどまり、自分の感覚で受け止めていきます。『The Keeper of the Living Water』はその姿勢を象徴する作品です。感情を受け止める静かな場所をつくりながら、解釈を一つに定めることなく、絵と観る者のあいだに言葉のいらないやり取りを生み出しています。
ロディカ・アレクサンドラ・ペトレスク:光と思索、その先へ
ペトレスクは、アトリエでひとり制作に向き合います。決まった手順に沿って進めるのではなく、その日の感覚に従って自然に描き始めます。事前に細かな構想を固めることはほとんどありません。下描きや写真、デジタルツールに頼ることもなく、描き進めるなかで作品のかたちが少しずつ見えてきます。こうして完成した絵には、制作に向き合った時間がそのまま画面に残ります。数時間で描き上げることもあれば、ひとつの作品に何か月も取り組み続けることもあります。ときには二枚のキャンバスを並べ、その日の集中の流れに合わせて行き来しながら制作を進めます。彼女にとって絵を描くことは、自分の内面にある思いや問いを確かめていく時間でもあります。
これからは活動の場をさらに広げていきたいと考えています。なかでも日本で作品を紹介する機会を持つことに関心を向けています。静けさや移ろいに目を向ける感覚や、言葉にしにくい感情をそのまま受け止める姿勢に、自分の表現が届く可能性を感じているからです。また、アートとテクノロジーが交わる取り組みにも関心を寄せています。デジタル化が進むなかでも、感情の深さをともなった表現をどのように伝えていくかを探り続けています。
その試みのひとつとして、最近YouTubeチャンネル「Rodica A World」を開設しました。制作の過程や作品について、自身の言葉で語りながら紹介しています。文字や画像だけでは伝わりにくい制作の背景を、動画という形で共有したいと考えたためです。これはギャラリーという空間に限らず、より多くの人に作品を届けるための新しい試みでもあります。今後は体験型の展示や共同制作などにも取り組み、表現の可能性を広げていきたいと考えています。絵画が持つ感情と思索の力を、これからの時代にも伝えていくこと。それが彼女の目標です。




