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「アートは、言葉にできない違和感を創造へと変える場所でした。言葉を介さずに、今ここにいること、誰かとつながること、そして人間であるとは何かを探る手段になったのです。」

自然に抱かれ、好奇心に導かれて

ケベック州ラノディエール地方、サン=ガブリエル=ド=ブランドンという小さな村で育ったクリスティン・コモー(Christine Comeau)は、幼い頃から水と森に囲まれて暮らしてきました。その原風景は今も彼女の作品に深く息づいており、水辺のイメージは流動性や記憶、つながりの象徴として、写真や映像作品の中に繰り返し登場します。こうした自然とのつながりや「移動」という感覚は、彼女の表現に欠かせない要素となり、テキスタイル彫刻、映像、インスタレーション、パフォーマンスなど、多様な領域を柔軟に横断する表現へとつながっています。

もともとは、絵を描いたり、コラージュをしたり、詩を書くことから始まった創作活動でした。そうした表現を通じて、彼女は疎外感や居場所のなさと静かに向き合ってきたといいます。ところが大学入学後、キャンバスの前で手が止まり、表現への道が途切れてしまいました。筆が動かない時間のなかで、「自分にとって本当に意味のある表現とは何か」を問い直すようになります。やがてたどり着いたのが、身体感覚に寄り添うような素材や手法──そのなかで出会ったテキスタイルこそが、彼女の芸術における言語となっていきます。

作品に描かれる「旅」や「移動」は、テーマというより、むしろ彼女の生活そのものです。引っ越しを繰り返し、定まらない暮らしのなかで、人と人との関係に潜む繊細なニュアンスを感じ取る感受性が育まれました。「忍耐」「柔軟性」「好奇心」、そして「自分を笑えること」。そうした資質が、彼女の作品に静かな強さと、情感の深さをもたらしています。コモーは、自身の体験を触覚的で視覚的、そして感覚的な形へと編み直しながら、「いること」と「いないこと」、「つながること」と「離れること」のあいだにある、見えない感情の揺らぎをそっと差し出しています。

Photo credit: Inventer le pays, 2019. © Melissa Amero.

クリスティン・コモー:見られる場所に立つということ

アートを始めた明確な転機があったわけではないと、クリスティン・コモーは語ります。表現することは職業の選択ではなく、生きることと切り離せない感覚でした。とくに、社会の枠組みに違和感を覚えるような場面では、創作が彼女にとって唯一の居場所になったといいます。言葉では表しきれない思いを、描くこと、組み立てること、詩を書くことを通して、彼女はかたちにしてきました。10代の頃、シュルレアリスムと出会ったことがきっかけで、当初はシュルレアリスムの画家を目指すようになります。しかしその夢は、いつしかジャンルや伝統にとらわれない、より広く曖昧な表現へと変わっていきました。

どこにもぴったりとはまらない感覚、自分の輪郭が社会のかたちと少しずれているという意識は、創作を語るうえで繰り返し浮かび上がってきます。コモーにとって、アートはただの表現手段ではなく、「今ここにいる」という実感を手繰り寄せるための行為です。居心地の悪さに身を置くことでしか見えてこないものがある。コモーは、そこに創作の出発点を見つけているのかもしれません。素材に触れ、身体を動かしながら、彼女は「つながるとは」「見られるとは」「本当の自分として存在するとは」といった問いに向き合っています。使うメディウムも一つに定めず、身体、素材、空間が互いに作用し合う関係性そのものを重視する姿勢が、作品全体に貫かれています。

学びの場やレジデンス、共同制作、展示など、さまざまな経験を重ねるなかで、コモーの表現は着実に深まっていきました。技術の幅が広がっただけではありません。作品の根底にある問いや視点も、時間をかけて研ぎ澄まされていったのです。彼女を突き動かしているのは、目には見えない感情や人との関係性に、手で触れられるようなかたちを与えたいという思いです。内面の風景や心の揺れ、社会の中に潜む力の働きを、体験として立ち上げようとするその姿勢には、一貫した誠実さが宿っています。作品のなかには、人と人とのあいだに流れる微かな緊張や摩擦、交わされないまま残るやりとりの気配までもが、丁寧に織り込まれているのです。

素材と動きが紡ぐもの

クリスティン・コモーの表現には、直感的でありながら、深い思索に裏打ちされた確かさがあります。彫刻、インスタレーション、写真、映像、パフォーマンス──多彩な手法を自在に行き来しながら、彼女は「身体」と「物質」のあいだにある複雑な関係性を見つめています。なかでもテキスタイルは、彼女の創作の中核をなす存在です。その柔らかさや、人の身体に近しい質感はもちろん、「思いやり」や「脆さ」といった感情との結びつき、変化への柔軟性といった特性が、素材としての魅力を高めています。衣服や布、縫い合わされたかたちは、記憶や変容、人とのつながりを媒介する装置としてたびたび登場します。

疲労、つながり、変化、思いやり、無意識──コモーの作品には、こうしたテーマが繰り返し現れます。なかでも、複数の人の身体を実際に布でつなぐような、参加型のテキスタイル彫刻は象徴的です。こうした作品では、動きや呼吸のリズムを互いに調整しながら、他者と空間を共有することが求められます。共にあるという行為が、目に見える身体の営みとして浮かび上がるのです。そのプロセスを通して、日々の人間関係のなかに潜む「見えない労力」がそっと可視化され、自立と依存のあいだで揺れる、繊細なバランスが浮き彫りになります。触覚に根ざしたこのような試みから、コモーは「誰かと共に生きること」そのものを示唆する、静かで力強いメタファーを紡ぎ出しています。

「自由」と「制約」、とりわけ「移動」や「居場所のなさ」と結びついた緊張感は、コモーの創作において尽きることのない着想源です。移動がもたらす感覚──それは解放であると同時に、制限でもあります。変化に適応しようとする過程には、摩擦とともに親密さも生まれる。彼女の作品は、そうした二面性をそっとすくい取ります。ただ「つながり」を描くのではなく、それを行為として立ち上げるのがコモーの特徴です。鑑賞者や参加者は、作品のなかで「誰かと空間を分かち合うとはどういうことか」を、頭ではなく身体で探ることになるのです。視るだけでなく、触れ、感じ、時間をかけて関わる。そのような静かな対話を促す作品の中で、私たちは、人と人とを結びつけている「身ぶり」に、あらためて気づかされます。

クリスティン・コモー:脱ぎ捨てる皮膚、かたちになる夢

クリスティン・コモーの代表的なプロジェクトのひとつに、『ウナギの脱皮』(Le dépouillement de l’anguille)があります。彼女の芸術観を力強く体現したこの作品は、自己の変容や、社会・文化から押しつけられる「かたち」からの解放をテーマにしています。プロジェクトは複数の段階に分かれて展開されました。まず、肌に密着する柔らかな衣装が制作されました。それはまるで第二の皮膚のようで、身にまとうことで内面に触れ、脱ぐことで何かを手放していく衣でした。舞台となったのは、ケベック州北部、ラック・サン・ジャン地方の川岸。現地でのパフォーマンスには、ジェームズ・ヴィヴェイロス、マリア・ケフィロヴァ、サラ・ハンリーの3人のダンサーが参加し、ゆっくりとした確かな動きを通して、「脆さ」「解放」「変容」を身体で描き出しました。

振付はサラ・ビルドとの共同制作によるもので、ダンサーたちは、風景と、互いの身体と、そして自分自身と対話するように、静かに衣を脱いでいきます。それは、他者から与えられたアイデンティティを脱ぎ捨てる行為でもありました。露わになる身体、そこに宿る緊張とやさしさ。風景のなかで重ねられるその身ぶりには、変わろうとする心の動きや、そこに伴うためらいや迷いが、動きのひとつひとつから静かに伝わってきました。パフォーマンスの様子は映像や写真として記録され、脱ぎ捨てられた衣装とともに、ケベックシティのギャラリー「L’Œil de Poisson」で展示されました。会場では、巨大な映像投影や布にプリントされた写真が、現地での夢のような空気を呼び戻し、観る者をその繊細な時間へと誘います。

展示空間には、観客が実際に衣装に袖を通し、自らの「脱皮」を試みる場も設けられました。身体と感情の両面から作品に関わるよう促されたこの体験は、観る者を参加者へと変えていき、「脆さ」と「再生」の循環のなかに巻き込んでいきます。この作品を通じてコモーは、「身体」「アイデンティティ」「素材」が交差する深い領域を浮き彫りにし、アートを共有の省察と身体的な経験の場として提示しました。柔らかな素材が、意味と変容を受け止める器となるその在り方にこそ、彼女の創作の本質があります。『ウナギの脱皮』は、内なる問いと、他者との関わりのあいだをつなぐ彼女の芸術を象徴する作品として、今も強い存在感を放っています。