日食という文法、イメージという装置
デンマークのアーティスト、カスパー・ベルグホルト(Kasper Bergholt)による《Sun: Triptychs for Solar Eclipses》では、ポスト・フォトグラフィー、システム・ポエトリー、映像、音、コード、そして周期的に繰り返される天体現象が、ひとつの作品の中で結びついている。ここで重要なのは、それらが別々の表現手段として並べられているのではなく、それぞれ異なる方法で情報を記し、組み立てる仕組みとして扱われている点だ。まず強く目を引くのは、白黒で構成されたデジタル・コンポジットである。画面の大半はほとんど黒に近い領域に覆われ、その中から建築物の断片を思わせる形、淡い筋、三角形をつくる線、点在する光がところどころに現れる。極端に抑えられた明暗によって、損傷した天体写真の乾板のようにも、機械の視覚を通して見た都市の廃墟のようにも、あるいは座標の一部が失われた地図のようにも見える。一方、詩を生成する画面は、対照的なほど簡潔に設計されている。名詞、動詞、副詞が別々の列に並び、右側には円形のサロス周期の表示、その下には生成された文章がイタリック体で現れる。この対比は作品を理解するうえで重要である。デジタル・コンポジットでは情報が重なり、何を見ているのか容易には判断できないのに対し、詩の生成画面では、規則や分類、数、操作の仕組みがはっきりと示される。ベルグホルトが日食に見出しているのは、壮大な天体現象としての魅力だけではない。普段見えているものが消えたとき、何が新たに見えるようになるのか。そして通常の視界が失われたときにも、どのような仕組みがなお働き続けるのか。日食はここで、見ることと、それをどのように表すかという問題を考えるための題材となっている。
この作品の出発点となった写真を知ると、そうした関係はさらに明確になる。素材となったのは天体観測の写真ではなく、ヘレルップ駅にあった壊れたカードリーダーを撮影した写真である。撮影にはNikon D200とCarl Zeiss Milvus 50mm f/2レンズが使われた。ごく日常的な機器を出発点にしたことが、作品にとって重要な意味を持っている。天体そのものを素材にしていないため、作品が宇宙の壮大さをそのまま強調する方向へ流れることを避けられているからだ。本来なら情報を読み取り、人の通行やアクセスを可能にするための装置が壊れ、その姿が加工によって惑星や宇宙図を思わせるイメージへと変わっている。日食を直接写した写真ではないにもかかわらず、この素材は作品の主題とよく結びついている。写真そのものが、光を取り込むための開口部と、光を遮るものとの関係によって成り立っているからである。さらに、情報を正しく読み取れなくなったカードリーダーによって、もうひとつの「読めなさ」が加わる。本来なら情報を認識するはずの機械が、期待されたとおりに機能しなくなっているのだ。画面内の長方形の断片は、壊れたディスプレイや建造物の一部のようにも見え、細い線の組み合わせからは、図面、星座、追跡システム、コンピューター上の網目状の構造などが連想される。ただし、そのどれかひとつに意味を決める必要はない。何に見えるのかが定まらないこと自体が、このイメージに広がりを与えている。元の写真に残る傷や、公共設備としての機械らしい質感を保ちながら、それらをまったく異なる大きさの世界へと移し替えることで、駅に置かれた機器の断片は、天体の周期や視界が遮られる現象を扱うイメージへと変わっている。
三連画という形式も、目で見る経験と、物事を分類して理解する仕組みとの間を行き来するこの作品の性質をさらに広げている。「Aperture」「Apparition」「Augury」という三つの言葉はいずれも「見えること」に関係しているが、それぞれ意味は異なる。Apertureは開口部を通して見ることを可能にし、Apparitionは、明確な説明が与えられないまま何かが姿を現すことを意味する。Auguryは、目の前に現れた兆候から、これから起こることを読み取る行為である。この三つを並べることで、見るための条件から、何かが現れること、さらに未来を予測することへと意味が移っていく。単に三つの要素を並べただけではなく、三連画そのものに明確な考え方が与えられているのである。ベルグホルトがビザンティンやギリシャ正教の三連画を参照していることも、この構成にもうひとつの意味を加えている。歴史的な三連画には、持ち運べること、内部の像を守ること、儀式の中で繰り返し使われること、そして像を見るための境界をつくることといった役割があった。このデジタル作品は、宗教的な三連画の外見をそのまま再現しているわけではない。しかし、何かを直接見るのではなく、何らかの仕組みを介して見るという考え方は受け継いでいる。ただし、ここには宗教画のように中心となる像が固定されていない。イメージ、詩、映像、コード、音が次々と入れ替わり、それぞれが一時的に作品の中心となる。この中心が定まらない構成は、作品の形式上の大きな特徴のひとつである。ベルグホルトにとって日食は、ただ眺めるための象徴ではない。見ること、言葉で表すこと、未来を予測すること。それぞれの仕組みがどこまで機能し、どこで限界を迎えるのかを明らかにするための条件として扱われている。
カスパー・ベルグホルト:制約、変化、そして反復の詩学
10語からなるグリッドには、ベルグホルトが作品に組み込んだ数的な構造が最も明確に表れている。3つの名詞、3つの動詞、4つの副詞、そして2通りの語順を組み合わせることで、72の異なる文章が生まれる。この数は、1179年から2459年までに起こるサロス126の72回の日食と一致する。3 × 3 × 4 × 2という構成の巧みさは、ごく限られた語彙だけで約13世紀に及ぶ時間を扱っている点にある。途方もなく長い時間が、仕組みをほぼ一目で把握できるほど簡潔な画面の中に収められているのだ。さらに重要なのは、現在の作品に、それまでの修正の経緯も残されていることである。2011年の前身作品では名詞の列に文法上の不規則さがあり、2026年初期の構想では、語の組み合わせの総数と、実際に表示される異なる文章の数を取り違えていた。ベルグホルトはこうした誤りを隠さず、修正の過程そのものを作品の意味に取り込んでいる。そのため、このシステムは最初から欠点のないアルゴリズムとして完成していたかのようには提示されない。規則は検討され、検証され、範囲を絞り直され、組み立て直されてきたのである。ただし、ひとつの詩とひとつの日食を一対一で対応させる点には、興味深い緊張関係も残っている。数え方や番号の対応には厳密な規則がある一方、生成される文章が天文学的な測定値をそのまま言葉に置き換えているわけではない。詩とサロスの関係は、実際の現象を写し取ったものではなく、作品の中で意図的に組み立てられたものだ。この隔たり自体は欠点ではない。ただし、両者の対応をどこまで詩として成立させられるかは、この作品が最も厳しく問われる部分でもある。
ルイ・イェルムスレウが区別した「換入」と「並べ替え」という考え方も、単に言語学の用語を作品に持ち込む以上の役割を果たしている。選択肢の中で語を入れ替えることと、語の連なりの中で配置を変えることが、実際の操作として目に見えるようになり、文法そのものが反復を生み出す仕組みとして働いている。さらに重要なのが、ロマン・ヤコブソンの「シフター(転換子)」という考え方と、副詞「now」の存在である。72の文章のうち18には「now」が含まれており、この偏りが、すべてを均等に配置した仕組みにはない面白さを生み出している。「rhythmically」「vertically」「recursively」が動作のあり方を示すのに対し、「now」は、その言葉が発せられる具体的な「今」を必要とする。人がいなくても際限なく作動できるシステムの中に、実際に発話する人間の時間が入り込むのである。ベルグホルトはさらに、語彙の多くがラテン語またはギリシャ語に由来する一方、「thicken」と「now」はゲルマン系の語であることにも注目している。それによって、分類や抽象性を帯びた語と、より直接的な感覚を持つ語との違いが強調される。この読み方は、実際の言葉の感触に即している限り説得力がある。「thicken」は触覚的で、単音節であり、「recursively」にはない身体的な感覚を持つからだ。しかし、そこからゲルマン系の英語とラテン語由来の抽象語を普遍的な法則のように二分してしまうと、議論の確かさは弱くなる。語源をたどることは詩の読みを豊かにするが、そこに説明の役割を負わせすぎれば、言葉に見られる傾向を絶対的な区分として扱うことにもなりかねない。この作品では、語源が何かを証明するためではなく、詩の読み方に緊張をもたらすものとして働くときに、最も効果を発揮している。
音の仕組みでは、こうした考え方がさらに明確な形で表されている。それぞれの詩はA2、110Hzの一定の持続音を背景に読み上げられ、各文字はアルファベット上の位置を12で割った余りに応じて部分音に割り当てられ、繰り返し現れる頻度によって重みづけされる。名詞、動詞、副詞は常に同じ順序で処理されるが、選ばれる語が変わることで、基音より上に生じる音のエネルギーの分布も変化する。サロスとの関係に説得力があるのは、変わらない音の土台の上で、異なる変化が繰り返し現れるからだ。同じ系列に属する日食も、一定の軌道上の関係によって繰り返されながら、その都度条件は異なる。とりわけ興味深いのが「now」の音響上の働きである。この語を構成する文字は、基音を強めない部分音に割り当てられている。言葉としては発話を現在に結びつける「now」が、音としては一時的に基音から離れるのである。この逆転には確かな詩的効果がある。「今ここにあること」が、音の足場から外れることで示されるからだ。一方で、この音の仕組みは、規則に基づく芸術が抱えやすい問題も浮かび上がらせる。作品の細かな意味の多くは、その仕組みを説明されて初めて理解できるからである。何の説明もなく音だけを聴いて、アルファベットを12で割った余りによる対応関係や、基音が強められないことの意味まで推測できる人はほとんどいないだろう。ベルグホルトの作品は、音を感覚として受け取ることと、その背後にある手順を理解することの間に位置している。そこでは、聴くことで得られる感覚と、仕組みを読み解いたときの理解が、必ずしも同じ瞬間に訪れるとは限らない。
壊れた読み取り機、古代の機械、そして「読み取れること」をめぐる問題
この作品を歴史的な視点から考えるうえで、特に興味深い比較対象となるのが「アンティキティラ島の機械」である。この古代の装置は、天体の動きを予測し、その周期を物質的な表面に読み取れる情報として刻み込んでいた。また、その予測は観測する地域に応じて調整されていた。つまり、予測、記録、反復、そして特定の場所から見るという行為が、ひとつの機械の中で結びついていたのである。ベルグホルトのグリッドは、ある意味でこれとは逆のことを行っている。サロス126という周期は作品を組み立てる基準として残される一方、地理的な場所の情報はほとんど取り除かれ、「now」のように発話する時や場所によって意味が変わる言葉を通して、具体的な時間と場所が再び作品に入り込む。この比較によって、天文学のデータを主に視覚的な効果のために利用する多くの現代作品との違いも明確になる。ここで天文学は、装飾的なデータの供給源ではなく、反復というものを考えるための文法として機能している。ハワード・ラッセル・バトラーの日食を描いた三連画と比べると、その違いはさらに分かりやすい。バトラーの有名な日食画が、観察に基づく科学的な正確さを目指したのに対し、ベルグホルトは日食を直接描かず、別のイメージへと置き換えることでその存在を示している。この差には、表現に対する考え方の歴史的な変化も表れている。かつて科学的な観察は、めったに見られない現象を絵画に記録するための手段となった。ベルグホルトの作品で問題となるのは、その現象が文化的な記憶として残るまでに、技術、言語、写真、アーカイブといったいくつもの仕組みを通過しているという事実である。
「読み取れること」をめぐる問題は、作品の出発点となった壊れたカードリーダーにも繰り返し現れる。交通機関のカードリーダーは、利用者が提示した情報を瞬時に判定するための装置である。有効か無効か、通過できるか拒否されるか。その判断は二者択一で行われる。しかし、機械が壊れれば、それまで意識されることのなかった設備としての役割を失い、表面や使われてきた時間、壊れやすさを持ったひとつの物体として目に入るようになる。ベルグホルトがこのような素材を作品の中心となるモノクロームのイメージへと変えたことで、天文学という枠組みだけからは必ずしも生まれなかった社会的な読み方も可能になっている。このデジタル・コンポジットでは、宇宙の現象を予測する仕組みと、日常生活の中で人の通行を管理する仕組みが結びつけられている。どちらも、送られてきた信号を認識できるかどうかを決める一定の規則に依存しているからだ。画面に浮かぶ光の断片は、崩壊したものと再び組み立てられようとするものの間にあるように見える。細い線は何らかの秩序をつくろうとするが、画面全体を完全に整えることはなく、白っぽい建築物のような形も繰り返し暗闇の中へ溶けていく。ここでイメージは、単にシステム・ポエトリーに添えられた視覚要素以上の役割を持ち始める。グリッドが規則によって抑えようとする不確かさを、画面そのものが引き受けているのである。開口部は重なり、何かが姿を現し、予兆は濃さを増していく。しかし実際の画面では、ものがきれいに重なり、明確に現れ、確実に予測できるという状態が絶えず崩されていく。この作品に説得力が生まれるのは、イメージと言語を生成する仕組みが、単純に同じことを表しているわけではないからだ。一方は規則正しく整理されたシステムの魅力を示し、もう一方は、実際の経験には雑音や中断、完全には読み取れないものが常につきまとうことを示している。
美術史の中で見ると、ベルグホルトの方法はいくつもの系譜と接点を持っている。具体詩やシステム・ポエトリー、ウリポ(Oulipo)的な制約、指示に基づくコンセプチュアル・アート、生成文学、サウンドアート、現代のコード・ポエトリーなどが比較の対象となるが、そのどれかひとつに完全に収まるわけではない。限られた語彙と組み合わせの規則を用いることで、作者個人の感情を語ることよりも構造そのものが重視されている。また、実際にプログラムとして実行でき、記録として保存されるため、規則は単に説明されるだけではなく、実際に作動するものとなっている。ベルグホルトが10代の頃にNetLock BBSのFidoNetノードを運営していた経験も、ネットワークや命令構造、機械が読み取れる形式での情報交換に対する現在の関心へとつながる経歴として捉えることができる。ただし、その過去を知らなければ作品が成立しないわけではない。この作品の独自性は、個々の仕掛けそのものよりも、異なる仕組み同士が互いに対応するよう、緻密に組み合わされている点にある。文法から72の文章が生まれ、サロスには72回の日食がある。文字は部分音へと変換され、写真は壊れた公共設備から始まり、コードは科学データのリポジトリに保存され、古代の天文機械が作品を考えるうえでの先例となる。一方で、これほど多くの要素を盛り込むことには、解釈が過剰になる危険もある。アンティキティラ島の機械、イェルムスレウ、ヤコブソン、ビザンティンの三連画、バトラー、シェイクスピア、語源、Prolog、スペクトル・マッピングといった数多くの参照先が、互いに読者の注意を奪い合う可能性がある。この作品が最も強さを見せるのは、二つか三つの仕組みが明確に結びつき、それぞれの参照先が互いを無理に正当化しなくても、構造そのものから意味が立ち上がる場面である。
カスパー・ベルグホルト:展示、アーカイブ、そして永続性をめぐる問題
《Sun》がこれまで展示されてきた経緯は、作品の主題とよく重なっている。このプロジェクトは、日食の時期に合わせて行われた公募をきっかけに始まり、その後、アイルランド・コークのMTUブラックロック城天文台で開催された「Solar Eclipse: An Exhibition」に向けて再構成された。そこでは72通りすべての詩と3本の映像作品が、実際の日食という天文現象と同じ場で提示された。この環境には重要な意味がある。《Sun》は科学の言葉を借りているだけではなく、観測や測定、その成果を一般に伝えることを目的とする施設の中に置かれることで、作品を構成する仕組みがどのように機能するのかを実際に試しているからだ。また、展示方法を柔軟に変えられる点も見逃せない。初期の展示のひとつは、後に音だけを使う形式へと変更された。つまりこの作品は、ひとつの決まった展示形式に依存せず、複数の要素に分けて提示することができる。その柔軟性は作品の考え方にも合っているが、同時に、どの状態が《Sun》という作品を最も完全に伝えるのかという問いも生まれる。イメージは簡単には読み解けない視覚的な複雑さを担い、インターフェースは語の組み合わせの仕組みを見える形にし、文章は理論的な背景を伝え、音は文字を周波数へと変換する。どれかひとつを取り除けば、展示の見え方だけでなく、作品の解釈にも変化が生じる。その意味で《Sun》は、複数のメディア同士の関係によって成立する作品として捉えると最も説得力がある。展示する側に求められるのは、それらの関係を保ちながら、周囲の解説が作品そのものを説明するための講義のようにならないようにすることである。
CERNへのアーカイブを試みた出来事も、この作品に時間というもうひとつの重要な要素を加えている。しかも、計画どおりに進まなかったことが、かえってこの試みを興味深いものにした。ベルグホルトは、コペンハーゲンで日食が最大となる瞬間に合わせ、PrologのコードをGitHubとZenodoを介してCERNのデータ基盤に登録しようとした。しかし、リポジトリに記録された時刻は予定より約10分遅れていた。作品の考え方から見れば、このずれは、完全に時刻が一致していた場合よりもむしろ興味深い。サロス周期は何世紀にもわたって繰り返される天体の規則性を示す一方、デジタル・アーカイブはネットワーク、タイムスタンプ、各種サービス、そして人間による操作に左右される。この10分の差によって、天体が刻む時間と、デジタルの仕組みが記録する時間との違いがはっきりと現れた。また、この出来事は作品にささやかなパフォーマンスの性格も与えている。日食とアーカイブの時刻を一致させるはずだった行為が、「一致しなかった」という事実そのものを記録する結果になったからだ。ここでアーカイブは、作品の外側にある中立的な保存手段ではなくなる。詩の構造を支えている時間、番号づけ、そして「その瞬間に存在すること」という問題に、アーカイブ自体も加わっているのである。さらにMITライセンスが採用されていることで、保存に対する一般的な考え方にも別の視点が生まれる。コードは広く再利用できるため、触れることのできない唯一の「原本」を守るのではなく、複製され、改変され、そこから新たな派生物が生まれる可能性を持つ。作品が受け継がれていくために重要なのは、ひとつの物体を所有し続けることだけではなく、実行可能な規則と、それを再現するための記録を残すことになる。
この開かれた構造によって、ベルグホルトの作品は、美術館や市場との関係においても興味深い位置にある。美術館、アーカイブ、メディアアートの組織、詩を扱う機関、科学をテーマとする展示施設など、それぞれが異なる分野からこの作品に接することができる一方、どれかひとつの領域だけで作品全体を捉えることは難しい。コレクターにとっても、一般公開されたライセンスのコードとオンラインでの流通が最初から作品の一部となっているため、従来の「希少性」という考え方だけでは扱いにくい。むしろ重要になるのは、イメージ、文章、ソフトウェア、音、映像、インターフェース、記録、そして特定の歴史的な時刻にまでまたがる作品を、どのように適切に保存し、受け継いでいくかという問題である。ソフトウェアやネットワークを使った作品の保存が、美術機関にとってますます重要な課題となるなか、この複雑さは《Sun》の強みにもなり得る。ただし、そのためには、作品の何を必ず残すべきなのか、どの部分なら変更してもよいのかを、非常に慎重に判断しなければならない。ベルグホルトの大きな成果は、72回の日食に72の詩を対応させた数的な整合性だけにあるのではない。修正し、別の形式へ置き換え、さらに再構成するという行為を重ねることで、「反復」そのものを制作方法へと変えている点にある。一方で、この作品には多くの理論や仕組みが組み込まれているため、それを説明しようとする言葉が増えすぎると、作品そのものが持つ感覚的な簡潔さを覆い隠してしまう危険もある。規則、イメージ、音、そして実際に起こる時間上の出来事が同じ重みで働くとき、《Sun》は、仕組みがどのように記憶を残すのか、言葉がどのように「今」という瞬間を示すのか、そして変化することを前提としたものから、いかにして永続性をつくり出せるのかを考える作品となる。




