「この文化的な遺産を、現代の視点と重ね合わせていきたいのです。」
筆に宿る精神性
古くから受け継がれてきた伝統と、現代のアートシーン。その間を静かに往復するのが、リコ・ユー(Rico Yu/Mengmeng Yu)の作品です。中国に生まれ、現在はニューヨークを拠点に活動する彼は、古典中国絵画の豊かな精神性を土台に、今の時代が抱えるテーマと向き合っています。墨による表現を軸にしながらも、そこには文化の記憶や自然環境への意識、そして目に見えない精神的な存在を感じさせる視点が通っています。ユーの作品は単なる造形美にとどまらず、自己とは何か、場所とは何か、過去と現在はいかに交わり得るのかといった問いを静かに投げかけています。
伝統的な絵画技法に囲まれて育ったユーにとって、筆を持つことはごく自然な始まりでした。古典的な墨画の訓練を通して、彼は繊細な描写や抑制された表現の中にある深い感情と向き合うようになります。同時に、自然との深いつながりも、筆を通じて育まれていきました。次第に彼の関心は、古い表現が現代にどのような意味を持ち得るのかという問いへと広がっていきます。デジタル化、環境問題、文化の交錯——そんな時代において、古典の絵画はどのように語りかけられるのか。この問いこそが、彼の創作の原動力となっています。
現在のユーの作品には、「つながり」というテーマが静かに流れています。人と風景、記憶と動き、内面と外界――それぞれのあいだにある関係を見つめています。画面には静けさが漂っていますが、その裏には複雑な制作過程があります。そこでは、高度な技術に加え、感情を素直に受け止める繊細さも求められます。描かれた風景は、ただの地形ではありません。霧や山のかたちは、見る人の内面に働きかける「精神の風景」として立ち上がります。そこにあるのは、古典の美意識と現代の感性が交差する場であり、単なる表現の融合ではなく、今という時代にこそ伝統の知恵が求められているという確かな信念です。
リコ・ユー(Rico Yu/Mengmeng Yu):聖なる山々と静かな対話
リコ・ユー(Rico Yu/Mengmeng Yu)の作品の中でも、とりわけ重要な位置を占めるのが『雪山』シリーズの中の一作です。中国西部の氷河地帯に取材したこの作品には、強い感情と象徴性が込められています。人里離れた神聖な山々は、単に美しい風景としてではなく、自らのルーツをたどる手がかりであり、古の画家たちが描き得なかった景色への挑戦でもありました。墨によってその姿を紙の上にとらえることは、時間の感覚を超えた体験を描き出すことでもありました。
こうした作品に独特の深みが宿るのは、制作に至るプロセスそのものにも理由があります。ユーは実際に現地を訪れ、調査と取材を重ねながら、旅を通して山々と向き合っていきました。最終的にはニューヨークのアトリエで、墨と和紙を使ってその記憶を静かに掘り起こしていきます。そこに描かれる一筆一筆には、現地での体験や思索の時間が反映されており、作品全体には自然の力強さと、それを前にした人間の謙虚なまなざしがにじみ出ています。墨は単なる画材ではなく、敬意や喪失感、そして雪に残る足音のような静かな感覚を伝える手段となっているのです。
このシリーズが際立っているのは、その作品に込められた思想の深さです。山々は単なる美の対象ではなく、内面を映し出す鏡のように描かれています。ユーにとってそれは、「永遠」と「一瞬」、「近さ」と「遠さ」といったテーマを見つめ直す行為でもありました。雄大でありながら、気候変動によって崩れつつある氷河は、文化のはかなさや環境の不安定さを象徴しています。このシリーズを通してユーは、風景を見つめるとは、そこに耳を澄まし、心を寄せ、やがて失われていくものとどう向き合うかを問いかけているのです。
筆と呼吸:アトリエという聖域のかたち
リコ・ユー(Rico Yu/Mengmeng Yu)にとって、制作の場は単なる作業空間ではありません。そこは、集中と内省、そして創造の流れを育む、静かな聖域でもあります。自然光に包まれたアトリエは、創造のエネルギーが静かに湧き上がる場所となっています。使用する素材にも強いこだわりがあります。上質な和紙、伝統的な硯、そして思考の延長のように反応する筆。どれもが、感情と表現を結ぶために欠かせない要素です。そして、それら以上に重要なのが「空気」です。ユーは、余計な音や気配を排し、ひとつひとつの動作が内面から自然に立ち上がるような環境を整えます。筆を紙に置く前には、しばし呼吸を整え、自身の感情と静かに向き合う時間を大切にしています。
こうした内面と表現とのつながりは、ユーの制作において中心をなすものです。気が散るということは、単なる邪魔ではなく、作品に込めたい真実から遠ざかることを意味します。だからこそ彼は、静かな瞑想や呼吸法、道具を丁寧に整えるといった小さな習慣を重ねることで、自分の感情の中心に立ち戻ろうとします。そうした準備を経て初めて、墨は明確な意志とともに紙に流れ出します。一本の線には意識が宿り、淡いにじみには心の余韻が込められているのです。
アトリエの空気感は、そのまま作品の画面にも反映されています。墨という素材は、にじみやすく、予期せぬ変化を見せることがありますが、ユーはそうした不確かさを否定せず、むしろ制作の一部として受け入れています。思いがけず生まれる濃淡や広がりが、新たな発見をもたらすこともあるのです。その偶然性は「失敗」ではなく、作品と向き合うためのきっかけとなります。ユーにとってアトリエは、支配する場ではなく、対話の場です。作家と素材、沈黙と音、歴史と現在——そのすべてが、ここで静かに呼応しているのです。
リコ・ユー(Rico Yu/Mengmeng Yu):時間、アイデンティティ、広がる画面
筆を手に静かに向き合う制作の先に、ユーは新たな可能性を見据えています。それは、古典的な技法とデジタル技術、そして没入型の空間体験を組み合わせるという試みです。中でも彼が構想する最大規模のプロジェクトの一つが、墨絵とプロジェクションマッピングを融合させたインスタレーションです。そこで筆致は紙にとどまらず、光や動きとして巨大な空間に広がり、鑑賞者が作品の中を歩くような体験が生まれます。思索の対象だった山水が、身体ごと入り込む空間として立ち上がる。その構想には、内面の表現として培われてきた山水画を、より開かれた、共有可能な経験へと変えていきたいという願いが込められています。
このような取り組みは、これまでの表現から逸れるものではなく、彼が一貫して取り組んできたテーマの延長線上にあります。古典の美意識と現代のテクノロジー、そして物語性をどう結びつけるか——その問いへの応答でもあります。没入型のフォーマットは、墨の持つ静けさや深みを、これまでとは異なるかたちで新しい鑑賞者に届ける可能性を秘めています。建築的あるいはデジタルな空間へとスケールを広げることで、ユーは作品を「見るもの」から「体験するもの」へと変換しようとしています。風景は空気となり、筆致は呼吸となる——伝統と革新のあいだを行き来する彼の姿勢を象徴する試みです。
ユーの表現は、時代やジャンルを越えた多様な影響を背景にしています。彼は、北宋の范寛や明代の董其昌といった中国絵画の巨匠たちから、構図の妙や哲学的なまなざしを学びました。彼らの風景画は、視覚的な美しさにとどまらず、観る者に深い思索を促すものでした。一方でユーは、現代の抽象作家や風景写真家たちが生み出す余白の使い方や、空間の緊張感にも強く惹かれています。そうした異なる時代や領域からの着想が重なり合い、ユー独自の表現がかたちづくられているのです。そこでは、静けさが語り、墨の脈動が未来へと流れていきます。