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A Downtown Moderne Icescape
キャンバスに油彩、75 x 47 in.
2023|LUPRI

「私は物心がついた頃から、ずっと何かをつくってきました。それは“やりたい”というより、“そうせずにはいられない”ものだったのです。」

音と風景、そして神話に導かれて

マティアス・ルプリ(Matthias Lupri)が画家になった経緯は、少し風変わりなものです。ドイツに生まれ、カナディアン・ロッキーの麓で自然に囲まれて育った彼は、幼い頃から広がる風景の中にある静けさや不思議さに心を惹かれてきました。その感覚は音楽へとつながり、ボストンに拠点を移してからは、ジャズ・ミュージシャンとして30年以上にわたり活動を続けます。即興性や感情の揺らぎ、抽象的な構成など彼の音楽に込められたそうした要素は、のちの絵画にも通じるものとなっていきます。

音楽に軸足を置きながらも、ルプリは常に別の表現方法を模索していました。写真や映像、文章など、さまざまな手法に挑戦しましたが、どれもしっくりとはきませんでした。そんな中で、初めてパレットナイフを手に取り、油絵具をキャンバスにのせたとき、思いがけず手応えを感じたのです。その瞬間から、絵を描くことが自然と日々の創作になっていきました。自由で手触りのある表現が、彼の感覚にぴたりと合ったのです。

現在ルプリは、神話や自然、夢、動きといった長年のテーマを、大判のキャンバスに描いています。幅3メートルを超える作品もあり、抽象的な表現の中に、強さと軽やかさが共存しています。そこには音楽で培ったリズム感も通っており、作品全体に静かな一体感が漂います。彼にとって絵を描くことは、目に見えない感覚をかたちにすること。かつて音で追い求めていたものが、今は色やかたちとして表れているのです。

Tanglewood Portrait
キャンバスに油彩、84 x 72インチ
2022|LUPRI
Camilia Morning After
キャンバスに油彩、72 x 72 インチ
2024|LUPRI

マティアス・ルプリ:絵の中に見出した新しい表現

音楽から絵へと移ったのは、何か劇的なきっかけがあったわけではありません。ただ、少しずつ別の表現を求めるようになっていったのです。音楽から離れたあと、さまざまな表現を試してみたものの、どれもしっくりとはきませんでした。そんな中、絵を描き始めて初めて、演奏と同じような手応え――その場で感情が立ち上がるような強さを感じたのです。筆をやめ、パレットナイフで描くようになってからは、より身体的で素直な描き方が自然と身についていきました。

絵を描き始めたばかりの頃は、とにかく作品を人の目に触れさせることを第一に考えていました。ボストンを拠点に、ギャラリーや展覧会に積極的に参加し、言葉ではなく絵そのもので何かを伝えようとしていたのです。やがて、ルプリならではのスタイルが少しずつかたちになり始めると、その作品はコレクターの目にも留まり、海外での販売や評価へとつながっていきました。ここ8年ほどで、画家としての立場を築き上げ、表現のかたちを変えることが、むしろ創作を深めることにつながるのだと実感するようになります。

絵に向かう姿勢には、ジャズで培った感覚が今も息づいています。即興性を大切にし、流れに任せるアプローチは、ひとつとして同じものがない作品を生み出していきます。構成に縛られず、描く手の動きに導かれるままに進めていく。そのなかで自然と、絵が語り出すものに耳を澄ませているのです。こうした制作スタイルは、ルプリ独自の存在感を現代アートの中に確立させました。抽象と、自分自身を見つめる感覚を重ねた作風は、きわめて個人的でありながら、不思議と普遍的な共感を呼び起こします。

Semblance Three Moons
キャンバスに油彩、120 x 72 インチ
2023|LUPRI

無意識という地図:作品に込められたテーマと影響

ルプリの作風は、一つのスタイルに収まるものではありません。抽象表現主義を基盤としながらも、印象派やミニマリズム、建築的な要素までを柔軟に取り入れています。作品は、完全に抽象的な表現と、人物や風景を想起させる要素のあいだを行き来し、都市や自然、夢のような場面が描かれることもあります。こうした多様なテーマをつないでいるのが、彼の描き方そのものです。筆致は自由で動きがあり、厚みのある絵具の質感が画面に深みを生み出します。制作はつねに直感的で、そのときどきに内から湧き上がってくる衝動に導かれながら進められていきます。

なかでもルプリが強く影響を受けた人物のひとりが、心理学者のカール・ユングです。ユングが唱えた「集合的無意識」や「元型」といった概念は、ルプリ自身の芸術観と深く響き合うものでした。本人がはじめから意識していたわけではないものの、彼の作品には古代神話や夢のイメージを通して、無意識の世界を視覚的に語ろうとする姿勢が表れています。とくに「均衡」や「二面性」、そして「目に見えない力」といったテーマは繰り返し描かれてきました。2015年の『Daemons of Inner Primordial Mirror(内なる鏡にひそむものたち)』(183×122cm)では、宇宙的なモチーフと神話的な象徴を抽象的に組み合わせ、意識と無意識のあいだに橋を架けるような試みがなされています。

ルプリが影響を受けてきたのはユングだけではありません。アンゼルム・キーファーやピカソ、モディリアーニ、ポロック、ジョーン・ミッチェル、ゲルハルト・リヒター、ウィレム・デ・クーニングなど、抽象の限界に挑んできたアーティストたちもまた、彼の表現を育むうえで欠かせない存在でした。彼らに共通するのは、絵具という素材に対する身体的なアプローチや、層を重ねることで生まれる奥行き、そして感情をそのまま表現しようとする姿勢です。そうした作品に向き合うなかで、ルプリもまた、抽象のかたちを通して心情や物語を伝える力を磨いていきました。彼の作品は、ただの絵画ではなく、内面を探る試みでもあるのです。

Daemons of Inner Primordial Mirror with LUPRI
キャンバスに油彩、72 x 48 インチ
2015 | LUPRI
Cool Cat Laphroaig
キャンバスに油彩、48 x 36 インチ
2024|LUPRI

創作という儀式と、これからの展望

ルプリは、日々の決まったリズムと集中力を大切にしながら、静かな空間で制作に取り組んでいます。アトリエは自宅の一室。照明を落とし、扉を閉めたその場所で、外の世界から距離を置き、創作に深く没入するのです。音楽を流しながら描く画家も少なくありませんが、彼は無音を選びます。音を介さずとも、かつてのジャズのリズムが、自然と絵の中にあらわれてくるのです。制作は毎日欠かさず行われ、1回のセッションは20~30分ほど。短い休憩を挟みながら集中を維持し、繰り返し手を動かしていきます。この制作のリズムが、即興性を保ちつつ、無理なく自然に作品がかたちを成していくことを可能にしています。

使用する画材もまた、ルプリの制作に深く結びついています。油絵具との出会いは偶然でした。画材店の店員に勧められて使い始めたものの、今では欠かせない存在となっています。乾くまでに時間がかかる油絵具は、質感を調整したり、絵具を重ねたりしながら、時間をかけて作品を育てていくのに適していました。さらに、パレットナイフや木炭、ワックスなどを組み合わせることで、画面には奥行きと動きが生まれます。絵を描くという身体的な行為と、その中に込められた感情が、画面全体に刻まれていくのです。

現在も表現の中心は絵画にありますが、ルプリの構想はそこにとどまりません。長年思い描いてきたのが、複数の表現を融合させたアートフィルムの制作です。絵と音楽、そして自身の記憶や体験が重なり合いながら、アーティストの内面を描き出す――そんな、夢と現実が交差するような没入感のある映像作品を目指しています。まだ構想段階とはいえ、そこには一つの形式に縛られず、絶えず創作の可能性を広げようとする彼の姿勢がにじんでいます。絵であれ、映像であれ、あるいはこれから出会う新しい手段であれ、ルプリの創作はこれからも進化を続けていくでしょう。人生と同じように、芸術もまた、かたちを変えながら歩み続ける旅なのです。

At Vista’s Clearing
キャンバスに油彩、60 x 36インチ
2025|LUPRI