「筆をとるたび導くのは、いつも直感です。私はただ形を描くのではなく、その奥にひそむ魂をすくい上げたいと、ひたすらキャンバスに向き合い続けています。」
マラカイボからモントリオールへ:対照に満ちた人生と、揺るぎないまなざし
ヘラルド・ラバルカ(Gerardo Labarca)が生まれ育ったのは、ベネズエラのマラカイボ。鮮やかな文化が息づき、感情の強さと豊かさが生活に根ざしたこの地で、彼の創作への感受性は育まれました。21歳のとき、彼はカナダ・モントリオールへ移り住みます。やがてその街は、人生を大きく転換させると同時に、芸術家としての歩みが始まる場所となりました。かつてラバルカは、長く料理の世界に身を置いていました。美しさへのこだわりと、細部にまで心を配るその仕事は、後に彼が絵画へと向かうための土台となります。異国での暮らしがもたらす複雑な心情や、日々の積み重ねの中で深まった感覚が、彼の作品に陰影と温もりをもたらしているのです。
絵を描くこと自体は幼い頃から得意としていたラバルカですが、本格的に取り組み始めたのは47歳でした。その遅い出発には、年齢を超えた強い意志と、自分自身を表現することへの確かな決意が込められています。料理の現場で鍛えた集中力と観察力は、いまや一枚の絵に向かう粘り強さとなり、一筆一筆に宿っています。長く形や質感、そして心の動きを見つめてきた時間が、この静かな決断へとつながっていったのです。彼が目指すのは似せることではなく、その人の奥にある気配や存在感を、絵として立ち上がらせることです。
ベネズエラからカナダへの移住という経験は、彼の作品に直接描かれているわけではありません。しかしその背景は、どの作品にも静かに流れています。絵の中に浮かぶのは、環境に適応しながらも自分らしさを保ち続けることの難しさ、そして変化の中で育まれる強さです。ラバルカは、思い出を語るためではなく、それが残した感情の核心を表すために絵を描いています。その一枚一枚が、言葉ではとらえきれない想いを受けとめる場となり、「ここに在る」という静かな意思表示にもなっているのです。個人的な表現でありながら、そこには多くの人が共感できる、心の居場所と変化へのまなざしが込められています。
ヘラルド・ラバルカ:感情を絵肌にとどめて
ラバルカの作品は、写実を基盤としながらも、人物の内面やその存在感といった、形にとどまらない本質を描き出そうとするものです。とりわけ彼が手がける女性像は、大きな画面に力強く描かれ、その眼差しは観る者を引き込み、静かに心を揺さぶります。そこにあるのは、精緻な筆致による再現だけではありません。細やかな表情と視線の交差を通して、言葉にならない物語が立ち上がり、深い余韻を残します。男性の肖像や動物たちもまた、作品世界に登場し、人の感情や、異なる生き物たちとの繊細な関係性を静かに語りかけてきます。
彼の作品を際立たせているのは、緻密に描かれた人物と、抽象的で重層的な背景との響き合いです。ラバルカは、コラージュやモルタルといった異素材を取り入れながら、被写体の背後に独自の空間を築いていきます。その背景は装飾的ではなく、人物や動物の内面に寄り添いながら、その感情や気配を映し出すように画面に広がります。明瞭さと曖昧さとの間に生まれる緊張感が、作品に深みと動きを与え、観る者に想像の余地を残すのです。
ラバルカは、動物をただの描く対象とは捉えていません。その絵には、環境や他の生命への静かな配慮がにじみ出ています。彼が描く動物たちは、その優雅さと気高さの中に、傷つきやすさと尊厳を同時に宿しており、加速する文明の波に晒されるいのちのかけがえのなさを伝えてくれます。そのまなざしの奥には、人間も動物も、すべての存在が見つめられ、敬われ、守られるべきだという揺るぎない信念が感じられます。ラバルカの作品は、ただ「目で見る」ものではなく、「心で感じること」、そしてその先にある「思いやり」を、そっと私たちに問いかけてくるのです。
森のアトリエ:自然と静寂の中で紡がれる時間
ラバルカのアトリエは、街なかのロフトでも、ギャラリーに隣接した作業場でもありません。森の奥深く、山あいにひっそりと構えられた、創作に集中するための静かな拠点です。周囲を囲む木々の緑に加え、室内には南国の植物が生い茂り、小鳥や魚、そして愛犬のカシムが暮らしています。そこに広がるのは、彼が育ったベネズエラの自然を思わせる、温かく豊かな空気。ラバルカは、長く厳しいカナダの冬の中で、かつて肌で感じていた光や湿度を思い出すようにして、この空間を自ら整えてきました。
彼の一日は、夜明けとともに静かに始まります。まだ世界が目を覚ます前の、澄んだ時間。木々のささやきに包まれながら、彼は深く絵に没頭します。アトリエに灯る人工の光は、熱帯の太陽を思わせるやわらかさを持ち、かつての日々と今をそっとつなぎます。室内に置かれたもの一つひとつが、心を落ち着かせたり、インスピレーションを与えてくれたりする存在です。環境を自ら整えることもまた、彼の創作の一部であり、その静かな集中は筆づかいにも通じています。この場所は、ただ描くだけではなく、自分と向き合い、二つの文化の間にある自分自身を少しずつ受け入れていく場でもあるのです。
ラバルカが選ぶ画材にも、その感覚がにじみ出ています。直感的に描けるアクリル絵具を好み、金属箔を使って光の変化とともに揺らめく表情を画面に添えます。さらにモルタルを用いて、絵に触れたくなるような重厚な質感と立体感を加えることもあります。それらの素材は、ただ表面を飾るものではありません。静と動、固さと流れ──異なる要素が交錯することで、彼独自の視覚的な言語が生まれるのです。ひとつひとつの質感が意味を持ち、観る者の心に、静かに語りかけてきます。
ヘラルド・ラバルカ:アートを力に変えていく
ラバルカの転機となった作品のひとつに、『CHAPLIN』というタイトルの肖像画があります。料理の世界から絵画へと本格的に舵を切るきっかけとなったこの一枚には、彼自身の思いが深く刻まれています。縦182センチ、横122センチの大作に描かれているのは、映画の象徴的存在であるチャーリー・チャップリンの、印象的な表情。その背景は潔いまでに白く、グレーと黒の濃淡が、観る者の心に静かに迫ってきます。もともとは試作的に始めたものでしたが、筆を進めるうちに、チャップリンという人物に重ねるようにして、自身の変化や歩みを語るような作品へと育っていきました。言葉や図像、異なる素材を重ねることで、再生の物語が静かに浮かび上がってくるのです。この作品はいまも彼の手元にあり、自らを奮い立たせ、原点を思い起こさせるような存在です。
とはいえ、ラバルカの活動は自身の表現だけにとどまりません。彼は「ONE FOR ALL – Art」というアーティスト支援のプロジェクトを立ち上げ、新たな才能に光を当てるための場づくりにも力を注いでいます。アートの世界に足を踏み入れるには、見えない壁がいくつもある。その現実を、自らの経験を通して知っているからこそ、この取り組みが生まれました。ONE FOR ALLは、発表の機会を提供するだけでなく、アーティスト同士が支え合い、互いの声を認め合えるようなコミュニティでもあります。ラバルカはそこに、創る人としての視点と、場をひらく人としての責任とを重ねているのです。
このプロジェクトの第一歩となったのが、パーキンス・ギャラリーで開かれた夏の展覧会です。多くの参加作家にとって、はじめて自身の作品を公の場で披露する大きな一歩となりました。これは単なる展覧会ではなく、「アートは人と人とのつながりのなかでこそ育つ」というラバルカの信念を体現する場でもあります。作品が人の目に触れることで、人生が変わることもある──そんな思いが、このプロジェクト全体に流れています。ラバルカにとって「成功」とは、自分ひとりの達成ではなく、可能性をみんなで分かち合うこと。創作にともなう孤独を、誰かと共に歩む力へと変えていくその姿勢は、彼のアートを、より大きな使命へとつなげているのです。