「絵画とは、外の世界を内に取り込み、内なる世界を外へと映し出す肌のようなものです。」
建築から絵画へ
トロントを拠点に活動する美術家、サラ・ニンド(Sarah Nind)。建築、版画、絵画と多彩な領域を歩んできた経験が、彼女の表現を形づくってきました。ブルネイに生まれ、イギリスとカナダ双方の国籍を持つ彼女のまなざしには、国境を超えた感覚が自然と息づいています。かつては建築家として十年を過ごし、その構成感覚や空間意識はいまも絵画に漂っています。現在はトロントの美術大学でドローイングとペインティングを教え、教育者と作家、その両方の役割を両立しています。
芸術は「偶然の発見」ではなく「必然」だったと彼女は語ります。幼いころから自分は芸術家になると確信し、作家や音楽家、美術家に囲まれた環境で育ちました。そこで培った感覚は、抽象と具象を織り交ぜながら物語を紡ぐ表現へとつながっています。作品はこれまでカナダ、アメリカ、ヨーロッパ、中国で広く発表され、カナダ国立美術館をはじめとする主要なコレクションに収蔵されています。
ニンドの絵画は、ただの視覚表現にとどまりません。そこにあるのは、過去と現在が交わる動的な場です。彼女の関心は、記憶や歴史が現在の感覚にどのように影響するかという点にあります。個人的な記憶と大衆文化の断片を織り合わせ、外界と内面がせめぎ合う緊張を画面に映し出しているのです。
サラ・ニンド:絵画という肌
ニンドにとって絵画とは、ただの表面ではありません。物質世界と感情や記憶、思考の世界をつなぐ「境界」であり、両者が交わる場なのです。彼女は絵画の表面を「膜」あるいは「皮膚」にたとえます。そこでは、外界が作家の眼差しによって内へと取り込まれ、同時に内なる感情や記憶が色や形となって外へ現れます。観察と抽象のあわい、その交錯こそが彼女の芸術観の核心にあります。
彼女の作品において、色彩は欠かすことのできない存在です。それは視覚的な効果にとどまらず、感情や思考を探るための道具でもあります。色は音楽や数学と深くつながっていると彼女は語ります。そこにはリズム、反復、パターンといった共通の性質が流れているからです。色を緻密に操ることで、感覚にも心理にも響く絵画を生み出し、観る者を多層的に引き込みます。鮮やかで伸びやかな色調は、構造と自発性の対話をさらに豊かにしています。
さらに特徴的なのは「個人的なイメージ」の導入です。彼女が描き込むのは、自身にとって意味を持つ断片だけです。過去の記憶や文化的な参照が折り重なり、個と集団をつなぐ接点となります。そこには「一度見たものは忘れられない」という芸術的な知覚の真実が深く刻まれているのです。
空間、スケール、そして描くという行為
ニンドにとってアトリエとの関わりは、そのまま制作の在り方を映し出しています。かつては五年間、生活の場そのものをアトリエとし、作品の中に浸るように暮らしていました。しかし、制作が進化するにつれて、暮らしと創作の場を分ける必要を感じるようになります。油絵を中心に、大きなスケールの作品を手がける彼女には、素材と存分に向き合える専用の空間が欠かせません。生活と切り離されたアトリエは、思うままに試行錯誤し、汚し、そして絵画の行為そのものに没入する自由を与えてくれます。
都市の喧騒や共同アトリエのざわめきに囲まれても、彼女は集中を保つ術を培ってきました。その集中力は、時間をかけて培われる芸術家特有の規律のようなものであり、外界の雑音を遮り、創造のリズムを保ち続けます。建築の素養と絵画の身体性が重なり、彼女は「人の体で感じ取れる大きさ、あるいはそれを超える大きさ」で描くことを好むようになりました。観る者が作品の中に足を踏み入れるように没入できる──そんな空間を思い描いているのです。
近年はキャンバスやリネンではなく板を支持体とし、小・中規模の作品に取り組むことで、新たな可能性を探っています。それでも彼女の関心は常に大作へと向かい、縦横2メートルを超える作品に挑む構想を抱き続けています。絵画の内部に広がる空間と、それを前にした鑑賞者の身体感覚。その両者の関係性をめぐる探究は、彼女にとって尽きることのないテーマなのです。
サラ・ニンド:旅と記憶が育む創造の視野
ニンドの創作を支えてきたのは、美術にとどまらない幅広い体験です。旅先での出会い、文化の変化、環境の移ろい──それらが彼女の眼差しに新たな広がりを与えてきました。パリではシテ・アンテルナショナル・デ・ザールのアーティストとして、フィレンツェでは大学の留学プログラムのコーディネーターとして過ごした日々もあります。そうした経験は新しい題材を与えるのではなく、むしろ自らの作品をより澄んだ視点で見つめ直すきっかけとなりました。ヨーロッパの都市の熱気も、カナダの自然の風景も、今なお彼女の創造の在り方を形づくっています。
表現手段も時とともに変化してきました。自らを常に画家と位置づけてきた彼女ですが、国際的に知られるようになったのは版画の分野でした。その後、素材の毒性に疑問を抱き、その領域を離れて写真を組み合わせたミクストメディアへと向かいます。近年は再び絵具そのものに立ち戻り、描く行為を前面に据えながらも、切り抜きやステンシルを駆使し、イメージとパターンのあいだに緊張感を生み出しています。塗り重ねの下に潜む色彩をのぞかせるその技法は、絵画に新たな奥行きを与えています。
特別な一作を問われても、彼女はあえて答えを避けます。重要なのは作品そのものではなく、「観る」という体験そのものだからです。新しい街を歩くこと、風景に目を凝らすこと、手仕事の工芸品に触れること。そうした瞬間が創造の源泉になります。テキスタイルや玩具、日々の生活に息づく工芸品も、彼女にとっては美術と同じだけの魅力を放ちます。個人的な記憶と文化的な記憶、そして絶えず変化する現在。そのあいだを行き来しながら、ニンドの絵画は流動する対話として息づき続けています。