「技と愛をもって働くことは、人として最も尊い行為のひとつです。」
働く人々を見つめる旅
キップ・ハリス(Kip Harris)は長年にわたり、働く人々の姿を写真に収めてきました。彼の関心は、工場や作業場といった場所そのものではなく、そこで手を動かす職人や労働者たちにあります。屋台の商人、工場の作業員、職人たちが黙々と仕事に向き合う姿をとらえ、そこに宿る誇りとひたむきさを映し出します。
このテーマは、彼自身の経験と深く結びついています。幼い頃から農作業や建設現場の仕事を手伝い、働くことの尊さを身をもって知りました。建築の道に進み、空間を設計する仕事に携わりましたが、彼の関心を引いたのは、設計図の上ではなく、実際に手を動かして建物を形にする職人たちでした。やがて写真は、消えゆく伝統技術や小さな工房の営みを記録し、ものづくりの価値を問い直す手段となっていきます。
彼の作品は、過去を懐かしむものではありません。積み重ねられた動作の美しさ、繰り返しの中で磨かれる技、長年の経験が生む職人の所作――そうした瞬間をとらえ、働くことそのものが創造的な営みであることを静かに伝えます。30年以上にわたり続く『At Work』シリーズは、仕事が単なる生計の手段ではなく、そこに技と情熱が込められることで、ひとつの表現となることを示しています。
キップ・ハリス:働く人々の瞬間を刻む旅
1990年以降、ハリスは世界各地を巡り、社会の片隅で黙々と働く人々の姿をカメラに収めてきました。彼が向かうのは、観光地ではなく、労働者が暮らす街や小さな工房、路上の仕事場。ペルー、アルゼンチン、ベトナム、インド、モロッコ、ヨルダン、そして北米・中米のさまざまな地域で、人々が汗を流しながら生み出すもの、その手仕事に宿る誇りを見つめてきました。こうした取り組みが評価され、2023年にはボインズ・エマージング・アーティスト・アワードを受賞し、北イタリアで滞在制作を行いました。2024年にはアンティグア・グアテマラでの二週間の制作活動も予定されています。
ハリスの撮影には、ライカ・モノクロームのデジタルカメラが欠かせません。小型でシャッター音が静かなこのカメラは、撮影される側の緊張を和らげ、自然な姿をとらえるのに適しています。ときに「なぜカラーではなくモノクロなのか」と聞かれることもありますが、ハリスにとって重要なのは、色ではなく、光や影、質感、そして構図が生み出す表現だと言います。余計な情報をそぎ落とすことで、被写体の本質がより際立つと考えています。
この視点は、ドキュメンタリー写真の巨匠アウグスト・サンダーやセバスチャン・サルガドの作品とも通じています。サンダーが社会のさまざまな階層の人々を記録したのに対し、ハリスは「働くこと」そのものを見つめ、その営みに誇りと尊厳を見いだします。彼はサルガドの「写真は被写体の価値を引き出すものでなければならない」という考えに共感し、それが伝わらない写真に意味はないと考えています。
香港の工房から東京のギャラリーへ
『At Work』シリーズの始まりは、思いがけない場所でした。ハリスはデザインの仕事で香港・九龍にあるルークス・アーティスティック・ファーニチャーを訪れ、家具製作の監修を行っていました。滞在時間はわずかでしたが、埃をかぶった窓越しに見えた職人たちの手仕事に強く惹かれました。機械ではなく、手作業で一つひとつ仕上げられる家具。その静かな集中と確かな技が、深く印象に残りました。
もう一度じっくり見たい――そう考えたハリスは交渉を重ね、撮影の許可を得ました。工房の屋上には乾燥中の木材が積まれ、そのすぐ上を飛行機がかすめるように降下していきます。変わりゆく都市の風景と、変わらず受け継がれる職人の技。その対比が、強く心に刻まれました。この経験が、世界各地の働く人々を記録するきっかけとなったのです。しかし、近年は撮影の機会を得ることが難しくなっています。労働環境や低賃金の問題を背景に、企業や職人の間で警戒する動きが強まっているためです。それでも、小さな工房や独立した職人たちの中には、ハリスの想いに共感し、協力を申し出てくれる人々もいます。
そして2025年5月、『At Work』シリーズの集大成となる展示が東京・新宿のPlace Mギャラリーで開催されます。ギャラリー代表の瀬戸正人氏とともに、106点の作品から40点を厳選し、日本の職人文化に敬意を込めた作品を展示します。仕事にかける誇りや、繊細で精緻な技術が伝わる作品を通じて、働くことの本質を見つめる機会となるでしょう。
キップ・ハリス:創造に没入するということ
ハリスにとって、写真はただの記録ではなく、没頭する時間そのものです。カメラの操作が無意識にできるようになると、周囲の環境と一体となり、決定的な瞬間を直感的に捉えられるといいます。この感覚は、道教の「無為自然」に通じるもので、意識的に考えなくても、自然な流れの中で物事が進んでいく状態に近いといいます。ハリスは、熟練した職人やアーティストたちも、仕事に没頭する中で同じような感覚を得ていると考えています。
この視点は、宗教儀式や結婚行列、さらには葬儀のような静寂な場面を撮影する際にも生かされています。場の空気に溶け込むことで、外部の人間が入りにくい場所でも自然と受け入れられ、ありのままの瞬間を切り取ることができます。
ハリスの作品は、社会的なメッセージを直接訴えるものではありません。彼が伝えたいのは、労働そのものが持つ美しさと誇りです。自動化やAIが仕事のあり方を変えつつある今、彼の写真は、職人技や仕事への献身が人間の本質をどのように形作っているのかを問いかけます。彼の視点を通じて、労働は単なる生計の手段ではなく、創造の営みそのものとして映し出されます。