「芸術とは、何よりも“自由”だと考えています。私は制作のプロセスを信じ、多層的なレイヤーやテクスチャー、大胆な色彩を重ねることで、作品が自ずと形を成していく過程を大切にしているのです。」
文化遺産と科学が交わる芸術の旅
アントワーヌ・カンジ(Antoine Khanji)の芸術の原点は、シリアの古都ホムスにあります。中東の鮮やかな色彩に囲まれて過ごした幼少期の記憶が、彼の創作の基盤を築きました。父が絵を描く姿をそばで見ながら、カンジは芸術への興味を深めるとともに、色や形、質感が織りなす調和の美しさを自然と学んでいきました。1980年にカナダへ移住して以降も、中東の文化が彼の表現に強く影響を与えています。特に、力強い原色を使った表現は、彼の少年時代の暑い夏の記憶を呼び起こします。
カンジの作品には、科学と芸術が交差する独自の視点が反映されています。ケベック州のビショップ大学でコンピュータサイエンスと数学を学ぶ傍ら、油絵の制作にも取り組むようになりました。この時期に、シリアの著名な芸術家エリアス・ザヤットの指導を受けたことで、その表現力はさらに磨かれました。IT分野でキャリアを積む一方で、絵画への情熱を持ち続け、1984年には初の油絵展を開催しました。科学的な思考が創作を支え、芸術が科学への洞察を深める。この相互作用こそが、彼の創造哲学の核となっています。
カンジにとって、アートは視覚的な楽しみを超えたものです。それは、人々を結びつけ、深い思索を促す手段でもあります。アクリル絵の具とパレットナイフを用いて描かれる彼の作品は、形や質感の可能性を追求する挑戦の積み重ねです。その表現は、抽象的なフォルムや鮮やかな色彩のレイヤーを通じて、日常の中に潜む美を浮かび上がらせます。カンジの絵画には創作への深い情熱が込められており、現代の喧騒から解放される安らぎの空間を提供します。
アントワーヌ・カンジ:創造の自由を追求する芸術家
カンジが絵画に向き合ううえで、常に大切にしているのは「自由な表現を追い求める」ことです。彼は特定のスタイルにとらわれることなく、創造性を自由に発揮することを大切にしています。これまでのキャリアでは、風景画から抽象画まで幅広いジャンルを手がけてきました。現在の作品は、計画に縛られることのない即興的なアプローチから生まれ、「芸術における自然淘汰」と彼が呼ぶプロセスによって形づくられています。大胆で直感的な筆遣いで描き始めた後、絵の具が層を重ねるごとに自然にその姿を変えていきます。
彼の作品は、論理的な思考と創造の自由が織り交ざった独特のバランスを持っています。科学的な知識に裏打ちされた構図や色彩の調整が、作品全体に一貫性を与える一方、その仕上がりは常に予測を超えるものです。初期の構想から大きく変化することも珍しくありません。この制御と自由のせめぎ合いが、彼の作品を多面的で奥深いものにし、観る者の感覚に強く訴えかけます。カンジは「優れた作品は、ただ目で見るだけでなく、感じ、聞き、そして嗅ぐことができるものであるべきだ」と語り、五感すべてを刺激する体験を追求しています。
カンジが本格的に絵画に専念するようになったのは、意外にも晩年に差し掛かってからのことです。新型コロナウイルス感染症パンデミックの中で、彼は60歳にしてシステムアナリストとしてのキャリアを終え、創作活動に人生を捧げる決断をしました。この転機は、若い頃に抱いた芸術への情熱を再び呼び起こすきっかけとなり、彼にとって新たな創造の旅の始まりとなりました。現在、彼は毎日スタジオで制作に取り組み、日々の創作を通じて新たなインスピレーションを形にしています。
油絵からアクリルへ:画材への新たな挑戦
かつてカンジの主要な表現手段は油絵でしたが、制作環境や健康への配慮からアクリル絵の具を使用するようになりました。カナダでの生活では、寒冷な気候のため室内での制作が中心となり、油絵具や溶剤によるアレルギー症状が出たことが、この転換のきっかけとなりました。アクリル絵の具は速乾性や柔軟性に優れており、カンジのスピーディーで即興的な制作スタイルに見事にマッチしています。現在ではアクリルを用いて、以前の油絵作品で見られた深みや質感を再現しながら、新しい可能性を切り開いています。
カンジは新しい画材に柔軟に対応しつつ、独自の芸術スタイルを守り続けています。かつて油絵で表現していた重厚な層やテクスチャーは、アクリルを使うことでさらに発展し、彼の作品に力強さと独特のエネルギーを与えています。何層にもわたる大胆な筆遣いと繊細な線描が重なり合い、作品に生命力を吹き込んでいます。また、中東の文化遺産に由来する鮮やかな色彩は、彼の過去と現在を結ぶ象徴的な要素となっています。
さらに、カンジはデジタルアートにも積極的に取り組み、SamsungのPenupなどのプラットフォームで新たな表現の可能性を追求しています。2018年にはPenupの「殿堂入りアーティスト」として認められ、現在では11,000人以上のフォロワーを持つなど、デジタルの世界でも注目を集めています。デジタル作品にも彼の絵画と同様に細部へのこだわりと情熱が表れており、これまでの表現領域を新たに広げています。
アントワーヌ・カンジ:混沌の中で生まれる平穏
アントワーヌ・カンジの創作の原点には、混沌と美がせめぎ合う世界との深い結びつきがあります。現在取り組んでいるプロジェクトでは、世界が抱える混乱を題材にしながらも、次の世代に希望をもたらそうと試みています。一連の絵画では、時代に渦巻く不協和音と変化の可能性をともに描き出し、アートを通じて人々の意識を変え、自分自身や社会を見直すきっかけを提供したいと考えています。
彼のアトリエに足を踏み入れると、まるで外界の喧騒が消え去り、創作に没頭するための凛とした静寂だけがそこにあるかのようです。静かに流れるクラシック音楽を聴きながら、一杯の紅茶を傍らに置き、30分の瞑想で心を整えます。こうしたシンプルな日課によって、カンジは外界の喧騒を忘れ、完全な集中状態に入ります。必要なのは筆とキャンバス、そして静けさだけ。時間の感覚すら薄れるこの瞑想的なプロセスを経て生まれた作品は、視覚的なインパクトにとどまらず、鑑賞者の心へ深く訴えかける力を持っています。
人生の後半に差しかかった今、フルタイムでアーティストとして活動することは決して容易ではありません。それでもカンジは情熱を失わず、作品を通じて世界とつながり続けています。彼が受けた影響は、フィンセント・ファン・ゴッホの激しい情動から、サルバドール・ダリの幻想的な世界観に至るまで多岐にわたります。それらを巧みに融合させた作品には、作家自身の感性が色濃く刻まれつつも、多くの人々に普遍的な共感を呼び起こす力が秘められています。カンジの絵画は、混沌の中にこそある静かな安らぎを示し、日常の中で見落としがちな美しさに気づかせてくれる一通の招待状のようです。